2007-11-17(この文章は書きっ放しです)
2007年11月17日 日常http://techno.to/detail/?cat_no=NUCD009
http://techno.to/detail/?cat_no=NUCD006
トランスかっけー
最近手を動かすことが少なくなってきた
ライティングファーストなやり方が得意なんだけど
そうすると自分でコントロールして製作(文章にしろ音楽にしろ)できなくなるんだけど
それって普通なのかな
頭で考えてそれを実現しようとすると案外つまらなかったりすることはよくあって
写真を撮る手法みたいにとりあえず撮れるだけ撮ってあとからそれをピックアップしてひたすらブラッシュアップをかましてくっていうやり方もありかもしれない
ジャズとかトランスとかブルーズとかインド映画サウンドトラックとかパンクとかポップですら僕のなかで等価にしていって
とりあえず拡散するように融合させていって(混ぜ合わせるのはもちろんそれぞれの表面(つまりよく使われる音源)ではなくてエッセンシャルで抽象化されたもので渋いベースリフを高い音にしてエフェクター幾重にもかけて変化させたような)ひたすら変化させていった挙げ句に
最後はビートルズスタイルのポップミュージックに落とし込む
みたいな
歌える音楽にするっていうのは簡単にみえて最も音の抽象化が必要かもしれない
もちろんどこかかあら有り合わせのメロディーを取ってくるのは簡単だけど
手を動かすのはそれ自体が楽しい行為だし
無意識を取り出してひたすらあっち側からこっち側にしてそれを際限していくのもの実は同じことなのかもしれない
無意識に物事を曲げたり広げてみたり
技術は後追いだと思う
逆に技術の制限があったなかで作られたものには作為的じゃない凄味がある(んだと思う)
上記のトランスだけど
例によって例のごとくそのジャンルで面白いものはごく一部の原則通り「トランスかっけー」は「このトランスかっけー」の意
20枚くらい試聴してやっと引き当てた一枚(リンクのうちの後者は聴いてないけど同じレーベルのほぼ同じ趣旨のアルバムなので購入予定)
もちろん100枚聴いて一枚も引きが無いことはよくあるで
こんなことをやっていられるのはある程度の時間の弛みのとわずかの緩んだ時間を避いてうまくいかないことすらあってもそれでも手間をかけて
うまくいったときに得るものの大きさからだと思う
良いものを選び出すっていうのはそういうものだ
ちなみに信じてもらえないだろうけどそのアルバムの最初の10秒聴いただけで全体の良し悪しが分かる
(これって前書いたかも 小沢健二が何かの対談で話してたことに激しく同意ー)
それからこれは自分でもどうかと思ってるんだけど
試聴を何度も何度も長年(15くらいのときから)繰り返してるとジャケットを見ただけでなんとなく良し悪しが分かる
あー
その原則にしたがったらmyspaceにあげた音源のひどさは
あの画像の如く自分で作った下手な描写だけどそれでもそういった意味では借り物じゃないってそういうことで
手の抜きようも同じことか
もっと本気で作ろうとしたらオーバーな表現じゃなしに1分の音作るのに6時間くらいかかると思う感覚的に
だってひたすら端正でバランスがつりあっていてなおかつ飽きさせない展開と鮮やかで跳ね回るような音ですよ目指してるのは
そこらのラーメン屋の頑固のおっさんの比じゃないんじゃないのか
それてとも作るのも慣れることで速度と質の両方が飛躍するのかしないのか
(確かaphexはそうだった凄く早い)
それにしてもリンク二枚目のジャケットは格好いいな
歌えて踊れてっていうのが若くて派手なある種の若者達(たぶん僕も含まれている)にとってのスイートスポット(あえてクリトリスとかそういう表現はしないで)なのかな(あとは歪んだギターでどーんみたいな)
capsuleがfruits clipperでかなり引き寄せた(それまでのアルバムをそれを発表するまでの若者達への’手探り’だったっていう見方もできる)
難しいことを難しくやろうとするとそれは大概何かに対して迷っていて楽しくしにくい感じなんだと思う
踊れないにしろ歌えて部屋でまったり的な若者達(たぶん僕も含まれている)にとっての音楽というのももちろんあって(派手なひとたちに隠れて年長には見えにくいけれど確かにいる)
良い例が思いつかないや
安藤裕子とか?ちょっと前からipodのプレイリストのなかで「のうぜんかつら」がパワープレイされてるんだけど
あとは誰だろう
その手の音楽は需給のバランス悪いのか俺の手元にないだけか
フォーク聴きたいな
日本の古いフォークと併せてそれよりさらに遡った海外のフォークとか
boredoms(良い名前だ)の山本(捕まったことがない(たぶん)ほうの)が「ギンガ」(プレミア付いてる本)っていう本の中で
「サイケ聴け。サイケ聴いていれば悟り体験をいつか味わうし、人生を変えてくれる。」とか言ってて、利害が彼にあったら間違いなく詐欺師のセリフなんだけど、そういう意味でサイケ聴きたい。
けどサイケってサイケなだけでフック(ちょっと前まで殴るほうと勘違いして使ってた)が無さそう
古い音楽ってフックが無いものばっかり残るんだけどこれってどういう了見なんだろ
ふざけてる
確認してみたら文字数カウンターで2129文字
これって凄いのか
溜ってたから沢山出ちゃった感じ?
溜るか溜らないかの違いってなんなんだろう
それが習慣として根付いてて
吐き出さないと気分が悪くなって不健康になるとか
それか元々澱み無く出力することができて
日々生きてるだけでそれが溜るような身体になってるとか
それともただ単にカラオケとかオシャベリみたいなストレス発散なのか
指と頭のストレッチには最適だ
(少なくとも指は暖まっている)
http://techno.to/detail/?cat_no=NUCD006
トランスかっけー
最近手を動かすことが少なくなってきた
ライティングファーストなやり方が得意なんだけど
そうすると自分でコントロールして製作(文章にしろ音楽にしろ)できなくなるんだけど
それって普通なのかな
頭で考えてそれを実現しようとすると案外つまらなかったりすることはよくあって
写真を撮る手法みたいにとりあえず撮れるだけ撮ってあとからそれをピックアップしてひたすらブラッシュアップをかましてくっていうやり方もありかもしれない
ジャズとかトランスとかブルーズとかインド映画サウンドトラックとかパンクとかポップですら僕のなかで等価にしていって
とりあえず拡散するように融合させていって(混ぜ合わせるのはもちろんそれぞれの表面(つまりよく使われる音源)ではなくてエッセンシャルで抽象化されたもので渋いベースリフを高い音にしてエフェクター幾重にもかけて変化させたような)ひたすら変化させていった挙げ句に
最後はビートルズスタイルのポップミュージックに落とし込む
みたいな
歌える音楽にするっていうのは簡単にみえて最も音の抽象化が必要かもしれない
もちろんどこかかあら有り合わせのメロディーを取ってくるのは簡単だけど
手を動かすのはそれ自体が楽しい行為だし
無意識を取り出してひたすらあっち側からこっち側にしてそれを際限していくのもの実は同じことなのかもしれない
無意識に物事を曲げたり広げてみたり
技術は後追いだと思う
逆に技術の制限があったなかで作られたものには作為的じゃない凄味がある(んだと思う)
上記のトランスだけど
例によって例のごとくそのジャンルで面白いものはごく一部の原則通り「トランスかっけー」は「このトランスかっけー」の意
20枚くらい試聴してやっと引き当てた一枚(リンクのうちの後者は聴いてないけど同じレーベルのほぼ同じ趣旨のアルバムなので購入予定)
もちろん100枚聴いて一枚も引きが無いことはよくあるで
こんなことをやっていられるのはある程度の時間の弛みのとわずかの緩んだ時間を避いてうまくいかないことすらあってもそれでも手間をかけて
うまくいったときに得るものの大きさからだと思う
良いものを選び出すっていうのはそういうものだ
ちなみに信じてもらえないだろうけどそのアルバムの最初の10秒聴いただけで全体の良し悪しが分かる
(これって前書いたかも 小沢健二が何かの対談で話してたことに激しく同意ー)
それからこれは自分でもどうかと思ってるんだけど
試聴を何度も何度も長年(15くらいのときから)繰り返してるとジャケットを見ただけでなんとなく良し悪しが分かる
あー
その原則にしたがったらmyspaceにあげた音源のひどさは
あの画像の如く自分で作った下手な描写だけどそれでもそういった意味では借り物じゃないってそういうことで
手の抜きようも同じことか
もっと本気で作ろうとしたらオーバーな表現じゃなしに1分の音作るのに6時間くらいかかると思う感覚的に
だってひたすら端正でバランスがつりあっていてなおかつ飽きさせない展開と鮮やかで跳ね回るような音ですよ目指してるのは
そこらのラーメン屋の頑固のおっさんの比じゃないんじゃないのか
それてとも作るのも慣れることで速度と質の両方が飛躍するのかしないのか
(確かaphexはそうだった凄く早い)
それにしてもリンク二枚目のジャケットは格好いいな
歌えて踊れてっていうのが若くて派手なある種の若者達(たぶん僕も含まれている)にとってのスイートスポット(あえてクリトリスとかそういう表現はしないで)なのかな(あとは歪んだギターでどーんみたいな)
capsuleがfruits clipperでかなり引き寄せた(それまでのアルバムをそれを発表するまでの若者達への’手探り’だったっていう見方もできる)
難しいことを難しくやろうとするとそれは大概何かに対して迷っていて楽しくしにくい感じなんだと思う
踊れないにしろ歌えて部屋でまったり的な若者達(たぶん僕も含まれている)にとっての音楽というのももちろんあって(派手なひとたちに隠れて年長には見えにくいけれど確かにいる)
良い例が思いつかないや
安藤裕子とか?ちょっと前からipodのプレイリストのなかで「のうぜんかつら」がパワープレイされてるんだけど
あとは誰だろう
その手の音楽は需給のバランス悪いのか俺の手元にないだけか
フォーク聴きたいな
日本の古いフォークと併せてそれよりさらに遡った海外のフォークとか
boredoms(良い名前だ)の山本(捕まったことがない(たぶん)ほうの)が「ギンガ」(プレミア付いてる本)っていう本の中で
「サイケ聴け。サイケ聴いていれば悟り体験をいつか味わうし、人生を変えてくれる。」とか言ってて、利害が彼にあったら間違いなく詐欺師のセリフなんだけど、そういう意味でサイケ聴きたい。
けどサイケってサイケなだけでフック(ちょっと前まで殴るほうと勘違いして使ってた)が無さそう
古い音楽ってフックが無いものばっかり残るんだけどこれってどういう了見なんだろ
ふざけてる
確認してみたら文字数カウンターで2129文字
これって凄いのか
溜ってたから沢山出ちゃった感じ?
溜るか溜らないかの違いってなんなんだろう
それが習慣として根付いてて
吐き出さないと気分が悪くなって不健康になるとか
それか元々澱み無く出力することができて
日々生きてるだけでそれが溜るような身体になってるとか
それともただ単にカラオケとかオシャベリみたいなストレス発散なのか
指と頭のストレッチには最適だ
(少なくとも指は暖まっている)
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