*******************これは小説や物語の基本的なやり方だ(と思う。)。まずできる限り読み手からかけ離れた背景やプロフィールではなくて、飲みくだしやすいように人物を作る。他人に関しては魅力的でありながら、主人公に好意的な人物と、読み手が現実で自分を攻撃したり虐げたり妬みを感じるような人物を悪人として描く。そうすると読む人間は段々と自分と主人公へ"乗り込む"ように馴染んでいく。あくまでも読む人が自分の罪を意識させたり加害者と感じるような描写や、実際にそうであっても、あくまでそれを客観視させないようにする。失敗や挫折を乗り越えて最後は読む人間を安心させるようにする。僕はいつも思うんだけど、もし作者が本当に誠実で公平な人であれば、そういったことが嫌になってしまうんじゃないかと思った。性善や性悪やそういったことではなくて、もし現実を曇り無く書いたら現実離れしてしまうようにいつも思える。ただ、もしかしたら、僕が求める物語というものは、そういうものかもしれない。よくいる人間が平然とやってのける奇妙(そしてそれはほとんどの人間が正常だと判断する)な行為や出来事。そもそも小説の中で書こうとしていたのは認識する現実と事実としての現実の差異で、その差異を展開して読み手(そして僕自身)に突きつける(啓蒙ではない。突きつけるだけだ。モラルもジャッジもなし。)というのが僕の望みだった。けれど、その動機から僕自身が離れてしまったように思えた。その差異に醜さや違和感を感じなくなってきてしまったように思えた。困難に満ちた恋愛について伝えようとしても、恋が醒めてしまえば伝えたいと思えるものではなくなる。起きた出来事が変わらないとしても。達観や許しや諦めか、とにかく。オーケー。僕は嘘をついた。本当は僕はただ単に物語を書くこと、書き続けることに興味を無くしているからだ。またそのうち戻ってくるだろうと思う。興味を無くした原因は色々ある。単調な動きを延々と繰り替えすことはある一定のラインを超える必要がある。水泳で平泳ぎを3時間ぶっ通しで泳ぐことはできる。それは最初の30分を超えたあたりからだと思う。5分しか泳いでいない人にとって1時間泳ぐことと、1時間泳いでからの1時間泳ぐことはまったく別物で、つまり、"慣れ"というものはそういうものだ。試しに3時間くらいムリヤリ物書きし続けたら10時間くらいぶっ通しで書けるんじゃないかと思っている。本当に。慣性が退屈を追い越すとき。そしてもう一つが、僕が飽きやすい人間だからだと思う。僕の行動を端から見てればそれはきっと出鱈目に動き回る蠅のように見えるだろうと思う。僕もそう思う。僕は風向きひとつで動きを変える蠅である。そう、多くの人と同じように。イタリア人のマラソンランナーは団体で走る連中が多い。それは団体行動が好きだからではなくて、走りながら話す連中が必要だからだ。これは持論で、なおかつ経験則でもある。共同で何かを作り上げたり、共感があるとき、作り上げようとする欲求は、頭のなかのどこかの神経と協調して、跳ね回る。慣性が作用するようにすること、協調すること。誰かに対する憧れがないとは言えない。それが前より少なくなったように思える。これが興味と同じように生理と同じように周期的(もしくは環境によって)に減退するものなのかは分からない。地位と名声(手あかにまみれた常套句だ。)。これを餌にして走り続けることは難しい。いままで何かを餌にして行動を続けられたことはない。未来にたいする想像力がかけているのか、刹那的なのか、その両方なのか。けれど、それでも、僕は有名で優れた人達の仲間でありたいと思う。(僕は率直すぎるだろうか。)これは自分が有名で優れた人になりたい、と宣言することと同じことだ。いつからかは分からないし、もしくは最初の最初からそうだったのかもしれないけれど、僕は自分が他の人より色々な面(全てとは言わない)で優位で当然だとみなすようになった。現在の自分は、そうであっての当然の姿、そこから割り引かれた状態なのだ、と。めちゃくちゃだけど。僕は未来に生きている。小説や何かしらの作品にとっては、それら自体がそれらの全てだ。けれど、僕にとっては作品が全てではない。作れば瞬時に後方に遠のいていく景色のように、本当に僕にとって大切なのは、こういう風に何かを作っている、いまこの時だけだ。*****************ここまで書いて僕はこの文章をどうやってムラハシにつなげていくのかを見失ってしまった。

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