今日の朝、こんな歌詞を思い出した。『俺の人生は普通の人生で、働き尽くめの毎日。』ともあれ、シャワーを浴びて服を着て飯を食って仕事にでかけると、いつものようにうんざりするような仕事にとりかかって、気付くと正午を過ぎていた。事務の女の子に声をかけるけれど今日もうまくいかない。なぜかは自分でも分かっている。’僕’は彼女と気持ちを繋げるタイミングを外してしまったからだ。その時もいつもと同じように、向こうが働いている最中に声をかけるのは良くないと、雰囲気を読み過ぎたからだ。なんにせよ、恋愛がうまい人間は嘘をついたり神経が太かったり、優しかったらできないものだから。仕事を終えて会社の飲み会に参加するけれど、僕のチームの仲間の連中にみんな彼女がいて、僕は落ち込んだ。一緒に入社した連中にも全員恋人がいた。不器用な自分を肯定できるほど弱くもなかったけれど、だからといって、楽になるわけじゃない。あのあと、映画と青は二人で僕の好きだった女の子(達)に会うことになったらしい。業務が終わると、月に一回の会社の飲み会になって、甘太郎で飲んだのが先月だってことに気付いた。飲みながら、酒の肴になるようにと、僕は自分の恋愛遍歴を話すわけだけど、狙い通り彼らの興味を異常に引きつけた。生まれて初めてナンパした話で、2ヶ月前に横浜のパルコのヴィレッジバンガードで女の子を口説いた話だ。けれど、その話は今はよそう。とにかく、僕は普通の人が普通では体験できないようなことを体験する割に、普通の人が普通にできることができないのだ。先月友人と食事をしていて、パスタ的な何かを皿に盛ってあげようとすると、自分でも分かるくらいぎこちなくて、そのうえ、そのパスタ的な何かを落としてしまって、ぐちゃっとなってしまった。閑話休題。ひたすら飲み終えると、僕は山手線に乗って渋谷に向かった。明らかにその方面じゃない同僚の連中と一緒に電車に乗っていて、ラッパーの同僚(アマチュアのラッパーである。そして、何故か彼は異常に仕事ができる。)と、あと二人の同僚と僕。残りの二人も、二人で20人分くらいの仕事をしているトップ営業マンだった。電車のなかで、ふざけて残りの二人の片方が韻を踏んで会話をするんだけど、それがアマチュアのラッパーの人より遥かにうまくて、それが面白かった。アマチュアのラッパーは途中で消えた。彼女のところに行ったらしい。それから、残りの二人と僕で、僕はクラブには遅くいけばいいと思って彼らと一緒に酒を飲むことにした。路上で飲み放題で一時間千円というキャッチに誘われて(結局は3人で8千円だった。千円で飲み放題で、お通し400円+一人必ず一品(大体全品千円以上)注文のオプションが必須なのだ。)、『水の庭』という店に入った。薄いカーテンで仕切った店内で、隣の姿や声が聞こえるくらい狭く席を仕切ってあるんだけど、僕たちは見境無く周りのカーテンを開けては他の客に絡んでいた。右隣が偶然同じ会社の人たちだった。とてつもない確率なんじゃないだろうか。次にカーテン開けたのは、後ろのテーブルで関係ない席のカーテンまで開いてしまって、すぐに店員に閉められた。客は3人が渋谷で働くシステムエンジニアだった。そして最後にカーテンを開けたのは左隣のテーブルで、本当にカーテンを僕たちが開けたかったのはこのテーブルの方だった。女の子3人組で僕らとマッチしていた。同僚二人がバックアップしてやるからとかフォローはちゃんとしてやるからとか話すのは俺たちの担当だからとか、適当なことを言い出して、僕はモジモジしながらも、よしここは俺の営業力を見せつけてやろうと、カーテンをばっしゃーんと開けると、場の雰囲気がいっきに醒めきって、女の子3人分男の子2人分の冷たい視線で僕は「これはやばい。どうする。」と自問自答をしながら頭をリニアさせながら、よしここは俺の可哀想な男の子感、いわゆる濡れた子犬感を全開にしてこの場を乗り切ればいいと思い付いて、とりあえず、3人の女の子のなかで一番可愛い女の子に「さっきから、隣にいるの、話聞いてて、実は悩み相談をしたくってカーテンを開けたんです!」と告白(計算済み)をすると、まずその3人が話を聞いてくれる姿勢を作ってくれたので、内心にやにやしながら、「実は僕は今日失恋したんです。」。完璧だ。「えー。」とか「ほんとにー。」と掴みはOKだ。「もう、ホントにそれで超落ち込んでて。」「どんな子なの?」と3人のなかの誰か。「いやぁ、事務の◎◎さんにフラれちゃって。」フラれたのは事実だけど、そこまで傷ついていたわけじゃない。田中美保に似ている綺麗な顔をした女の子は「なんでフラれたの?」と、まぁ、そんな感じでトークを頑張ってしている間、僕が残りの二人の会社の同僚に視線を送るけど、なぜか澄まし顔!全然フォローなし!喋れよお前らと思っている間、ひたすら自分の恋愛遍歴を話し続けている自分という構図。とにかく、自分の感覚をひたすら研ぎすませて、可哀想な自分を演じながら、叱られる自分という役割から残りの二人を話にからめようとするけど、うまくいかない。(いまこうして書いている最中に気付いたけど、逆にこれは自分の喋りが下手で盛り上がる感じに繋がらなかっただけか。)そんな感じで田中美保(似)に5分くらい叱られていると店員がやってきて「退席のお時間ですがぁ」って、お前ぇああああ、と憤りを感じたけど、それが店のルールだし、ともかく3人が立ち上がる時に、田中美保(似)に名前と、これからどこのクラブ行くのか聞いた。(カーテン越しにクラブに行くと盗み聞きしていたのだ)。WOMB(ラブホ街にあるクラブだ。ウームと読む。)。取り残された3人。しかもなぜか俺が責められる。営業が巧い人がナンパが巧いというのはきっと嘘だろう。もう、そのあと何が起きたのかよく覚えてないけど、懲りずに他の席のカーテンを開けていたように思える。二人と別れたあと、organ barに行って酒をさらに飲んでいると、さっきの出来事の話になって、お前ちょっと女を調達してこい、という流れになった。なんでだ。ともかく、僕は雨の中、虹色の傘をさして、雨が降る渋谷を移動した。僕はそういうのがとても楽しかった。特別なことなんて全然ないけど、こんな風にいろんなことが滅茶苦茶に混ざり合って、確かなことが、幻想と現実のなかで混ざり合って、バグっていくときに、僕は興奮した。性向をやたらめったらしている壁のカーテンで仕切られた空間を横断しながら、なぜだか、4才頃に幼稚園のトイレで転んで後頭部を強く打ち付けたときのことを思い出した。そのあとタンコブはずっと治らなくて、今でも僕の後頭部は何故か腫れ上がったままだ。僕は他の人たちが、決して手に入れることができないものを手にしていた。けれど、全部全部本当はガラクタで、社会や文明がなければ、ナンセンスになってしまうばかりのものなのだ。WOMBの大きなドアを開けて、僕は3500円の冒険料を支払って田中美保(似)の女の子、シマムラさんをを探した。いつものように、彼女の薬指には指輪が嵌っていた。案外簡単に見つかった。なぜなら、彼女はわざわざ階段の途中で男と抱き合っていたからだ。こういうことが多過ぎて、僕は僕らしくなっていく繰り返しにうんざりしてしまう。いつものように、いつものように。彼女と目があって男の後頭部の横でアイコンタクトをすると、十分にその感じは伝わった。何しろタイミングを流せば、流れて消えていって見えなくなってしまうものばかりだ。シマムラさんは、『水の庭』で僕に「そんな彼氏がいるような男を好きなるのがダメ。」と言った。実をいえば、嘘っぽい振る舞いをしながらも、僕は彼女の言葉で少しだけ泣きそうになっていた。けれど、でも、じゃあ、僕はそういう風に彼女とクラブの螺旋階段の途中で君と目が合ったときに、どうすればよかったんだろう。僕はすぐにWOMBから逃げ出して、Organ Barに戻った。ずっと言えなかった言葉を、誰かに言おうと思ったけれど、結局、その夜、誰か誰かがいて、僕がその外側にいる、という話を誰にも伝えられないまま夜が過ぎた。僕はいまこうして文章を書いている。本当は、自分のためではなく、自分のエゴのためではなく、誰かが言葉にも物語にもできなかったことを代わりに伝えたいと思っている。だから、こういう話だ。文章を書くことについて。ある日、僕が渋谷のセンター街のファーストキッチンにいて、すげーいい感じの女の子に囲まれながら、文章とか書けたらいいなって思いながら店の階段を降りて、席に座って小説の続きを書きながら非現実の世界に没頭しているのに飽きて、辺りを見回していると18才くらいの女の子が二人いて、片方の女の子が「おっちゃんがいいって言ってくれるからさぁ」とか「実は3万円だから」とか「1:3でいいよ」とか「二人だから大丈夫でしょ」とか「春休みはバイトしたくないでしょ」とか、会話の節々を繋ぎ合わせると、要するに片方の女の子が売春をしていて、もう片方の女の子を仕事の仲間にしようとしているというわけだ。これはフィクションか?いや、混じりっ気なし100%純粋に誇張なしの現実、ノンフィクションだ。二人に目をやると、何度か、仲間を勧誘しようとしているほうの女の子と目があった。苛立っているような悲しそうな目をしている。彼女は半端に成長した身体の上に、わざわざ露出度の高い洋服を着ていた。大人と同じ服を着ているGapの小さなモデルを、悲惨にしたらそういう衣装になる。彼女達と僕との距離は2mも無かったと思う。僕がそれとなく注目していることに気付くと、彼女の声はすこしだけ大きくなった。学校でクラスの好きな女の子の気を惹くために、わざと馬鹿なことをやる男子学生と似ている。僕には分かっていた。彼女は悲鳴をあげていたのだ。それは奇妙な形に捻れていた。けれど、確かに何かを心底から必要としていた。その時思い出したのだ。僕が3年前好きだった女性(僕の5才年上で、とても綺麗で、とても暗い心を持っていて、何よりも僕に似ていた。)が飼っている犬のことを彼女は話してくれた。その犬は彼女に溺愛されていて(本当の孤独の味を知っている人間は、絶対に自分から逃げられない動物を飼う。)、僕がセックスをしようと代官山のバーの個室で酒を何百杯も飲んでいた。そして、彼女は凶暴といえるくらいの勢いで酒を頼んでは飲み干していたけれど、不思議なことに全く酔わなかった。自分は酒に強いわけじゃないと本人は言っていたけれど、それが本当かどうかは分からない。(酔ったフリをするくらいのことはしてくれても良かったと思うんだけど)彼女が僕の誘いを断って自分の家に帰る直前、そのときのように雨降る代官山でタクシーを待っていた彼女は僕に飼っている犬の話をした。その犬は雄で彼女が家に帰らないと、ひどい便秘になって病院に連れていかなきゃいけなくなるから、と彼女は言ってた。僕はうまく人と話すことが昔からできなかったし、女の子とうまくホテルに行くこともできなかった。だから、ファッキンでその女の子の声が大きくなったとき、昔のその思い出を思い出した。その時、僕はこれが小説の種になるだろうと思った。僕は誰かに同情したりしない。なぜなら、便秘の犬を飼うほど鈍感でいれる人間ではないけれど、でも、代官山で女の子を甘やかして、タイミングを逃してラブホテルに行くことができなかったから、だからそんな余裕も器用さを持ち合わせてなかったからかもしれない。
organ barから家に帰って寝て起きて、酒井景都のサイン会に行く予定を思い出した。そうしようと思った動機までは思い出せなかった。小説の材料にするためなのか、芸能人を観たい卑屈なミーハー根性だったのか、中田ヤスタカに対する憧れの延長だったのか、それとも、ただの性欲の延長だったのか。十分な時間が取れないまま、昨日着た服のまま、MacBookを鞄に詰めて、1Kの部屋を出た。’僕’の話はここまでだ。語り尽くせないほど、僕の周りを流れていく色々は鮮やかだ。僕は幻想のなかで生きている。
銀座駅で彼女と電車を乗り換えるために、ホームで待っていると、彼女はふと、話の続きを思い出していた。「それで、偶然その小説を書いていたときのことなんだけど、凄い偶然だったわ。ほんとに。」「偶然?」「フィクションだとしたら、出来過ぎた偶然過ぎて誰も信じてくれないような話なんだけど。」彼女との特別な時間。「ちょうど、盲目の男の子が手術をしている場面を書き始めたときに、えっと、あれは渋谷のサンマルクカフェで2009年の3/15の19:55のことよ。完璧過ぎて信じられないようなタイミングでお店に目の見えない男の子が入ってきたの。身長は175センチメートルくらいで、年は18才くらい。むくんだような太り方をしていて、ちょっとダウン症みたいな感じもした。身なりは普通なんだけど、やっぱりちょっと中学生みたいな雰囲気なんだけど、ぎゅっとつぶって少し疲れて男らしくなった目の隈のせいで、少しだけ大人びても見えた。」僕は彼女の集中力を乱さないように、声を出さずに相づちをした。「まず驚きだったのが、彼の自主性の形で店のドアを開けるなり『カウンターはどこですかぁ。』ってうなされるみたいに、ずんずん進んでいくの。勇猛っていうのあまさにあんな感じ。怖くないのね。それで、店員じゃない男の子、カップルの片方のほうが、先にカウンターに並んでいて彼を誘導した。そういうのは電車の中で老人に優先席を譲るみたいに自然で、盲目の彼はアイスカフェオレとピザトーストみたいなパンを買って、なんと私の真ん前の席に座った。ガイド役の男の子が優しく声をかけて、それを傍で見ていた酒井景都みたいな雰囲気の女の子は嬉しそうだった。席に着くと、次は店員がやってきて、彼に、『お店を出る際は声かけてください』とかそういうことを彼に告げると、彼は『ガムシロップ入れてください』と彼女にカフェオレにガムシロップを入れてもらって、さらに『六本木に行くにはどうすればいいですか?』と聞いた。道順から何から何まで。彼が私の目前で綺麗に食事をとる様子と、携帯電話を両手で持って家族か誰かに話をする様子を、そのあともずっと私は見ていたわ。途中で、携帯電話につながらなくなって途方に暮れていたけれど、それでも、そのことをさして気にせずに店を出ようとして立ち上がったところで、さっきの助けてくれたカップルに連れられてお店を3人で出て行った。その夜、出来事に意味を付けること、つまり、私が書くみたいな小説のことについてずっと考えて朝まで眠れなかった。」「確かに、偶然というにしては出来過ぎてますね。」電車がやってきて僕たちは乗る。「うん。時々パラノイアみたいになる。自分が何かの陰謀に巻き込まれていて、そのせいで周囲のあらゆる人間に騙されて監視されてるってね。でも、それはそれで素敵じゃない?もし、そうだったとしたら、周囲の騙している人たちからは、ずっと注目されているわけだし。」「でも、どういう陰謀なんでしょうか。わざわざ、あなたが書いている小説の内容をなぞるように、現実の人間をよこすなんて。」彼女はこめかみを少し押さえてから笑った。「そうね。退屈な日常に慣れ過ぎた人たちが、非日常を作り出して番組か何かにするって感じ?あなたはどう思う?」「僕は、そういう偶然が重なるときが、確率的に人生には何度もあって、そういうことに気付くか気付かないかの違いなんじゃないかと思います。見る人が見れば凄く貴重な陶器を、普通の人たちは物置にしまっているのに、分かる人だけが、とても丁重に扱うことができて、美術館の最高の展示場所に置かれる。」「なるほど。」「でも、価値があるかどうかなんて、結局、誰かの主観に過ぎないんだし、偶然の価値も、醒めた人間にとっては興味を惹かないかもしれない。そのへんもきっと美術品と同じなんじゃないかな。」築地に着いた。僕たちはなんとなく、無言になって、地上にあがってから手を繋いで歩いていた。僕はふざけて目をつむって、彼女の手を握ると、彼女の細くて冷たいだけが頼りにできなくなったら、彼女は(彼女も)喜ぶだろうか。築地市場に着いて、僕たちはしばらく寿司屋を探したけれど、見つかったのはチェーン店だけで、通好みっぽい渋い店は無かった。彼女も僕も市場で働く人たちの一部は寿司を食うものだと思い込んでいたんだけど、実際に作業着を着た連中は海鮮丼の店で朝飯を食っていた。僕は、彼女がどういう反応をするのかが気になった。食うのは海鮮丼か、寿司か。現実か、幻想か。
結局彼女が選んだのは寿司屋だった。彼女曰く「チェーン店だとしても、ネタの鮮度は市場にあるのと同じだから。」とのことだ。小説家が言うと、普通のことでも、なぜか含蓄が含まれているように感じてしまうものだ。ひたすら寿司を食っていた。彼女が言った言葉でよく覚えているものがある。彼女は寿司のなかで、甘エビがとても好きで3回連続で頼んで(寿司職人が少し戸惑っていた)、そのときに彼女が独り言のように「値段っていうのは希少価値を量る物差にしかならないこともある。」と言っていた。値段が高いものが優れているとは限らない。そういう意味で、僕はある投資家の言葉を思い出した。安手の紙で最後のほうにオマケみたいについてる財務諸表が金色の字で刻印された表紙より価値がある、と。それなら、あらゆる場所に隠されたように、物事の表面からだけでは見ることができな、縦、横、ではない奥行きがある、その場所に何か価値のあるものが眠っているのかもしれない。
organ barから家に帰って寝て起きて、酒井景都のサイン会に行く予定を思い出した。そうしようと思った動機までは思い出せなかった。小説の材料にするためなのか、芸能人を観たい卑屈なミーハー根性だったのか、中田ヤスタカに対する憧れの延長だったのか、それとも、ただの性欲の延長だったのか。十分な時間が取れないまま、昨日着た服のまま、MacBookを鞄に詰めて、1Kの部屋を出た。’僕’の話はここまでだ。語り尽くせないほど、僕の周りを流れていく色々は鮮やかだ。僕は幻想のなかで生きている。
銀座駅で彼女と電車を乗り換えるために、ホームで待っていると、彼女はふと、話の続きを思い出していた。「それで、偶然その小説を書いていたときのことなんだけど、凄い偶然だったわ。ほんとに。」「偶然?」「フィクションだとしたら、出来過ぎた偶然過ぎて誰も信じてくれないような話なんだけど。」彼女との特別な時間。「ちょうど、盲目の男の子が手術をしている場面を書き始めたときに、えっと、あれは渋谷のサンマルクカフェで2009年の3/15の19:55のことよ。完璧過ぎて信じられないようなタイミングでお店に目の見えない男の子が入ってきたの。身長は175センチメートルくらいで、年は18才くらい。むくんだような太り方をしていて、ちょっとダウン症みたいな感じもした。身なりは普通なんだけど、やっぱりちょっと中学生みたいな雰囲気なんだけど、ぎゅっとつぶって少し疲れて男らしくなった目の隈のせいで、少しだけ大人びても見えた。」僕は彼女の集中力を乱さないように、声を出さずに相づちをした。「まず驚きだったのが、彼の自主性の形で店のドアを開けるなり『カウンターはどこですかぁ。』ってうなされるみたいに、ずんずん進んでいくの。勇猛っていうのあまさにあんな感じ。怖くないのね。それで、店員じゃない男の子、カップルの片方のほうが、先にカウンターに並んでいて彼を誘導した。そういうのは電車の中で老人に優先席を譲るみたいに自然で、盲目の彼はアイスカフェオレとピザトーストみたいなパンを買って、なんと私の真ん前の席に座った。ガイド役の男の子が優しく声をかけて、それを傍で見ていた酒井景都みたいな雰囲気の女の子は嬉しそうだった。席に着くと、次は店員がやってきて、彼に、『お店を出る際は声かけてください』とかそういうことを彼に告げると、彼は『ガムシロップ入れてください』と彼女にカフェオレにガムシロップを入れてもらって、さらに『六本木に行くにはどうすればいいですか?』と聞いた。道順から何から何まで。彼が私の目前で綺麗に食事をとる様子と、携帯電話を両手で持って家族か誰かに話をする様子を、そのあともずっと私は見ていたわ。途中で、携帯電話につながらなくなって途方に暮れていたけれど、それでも、そのことをさして気にせずに店を出ようとして立ち上がったところで、さっきの助けてくれたカップルに連れられてお店を3人で出て行った。その夜、出来事に意味を付けること、つまり、私が書くみたいな小説のことについてずっと考えて朝まで眠れなかった。」「確かに、偶然というにしては出来過ぎてますね。」電車がやってきて僕たちは乗る。「うん。時々パラノイアみたいになる。自分が何かの陰謀に巻き込まれていて、そのせいで周囲のあらゆる人間に騙されて監視されてるってね。でも、それはそれで素敵じゃない?もし、そうだったとしたら、周囲の騙している人たちからは、ずっと注目されているわけだし。」「でも、どういう陰謀なんでしょうか。わざわざ、あなたが書いている小説の内容をなぞるように、現実の人間をよこすなんて。」彼女はこめかみを少し押さえてから笑った。「そうね。退屈な日常に慣れ過ぎた人たちが、非日常を作り出して番組か何かにするって感じ?あなたはどう思う?」「僕は、そういう偶然が重なるときが、確率的に人生には何度もあって、そういうことに気付くか気付かないかの違いなんじゃないかと思います。見る人が見れば凄く貴重な陶器を、普通の人たちは物置にしまっているのに、分かる人だけが、とても丁重に扱うことができて、美術館の最高の展示場所に置かれる。」「なるほど。」「でも、価値があるかどうかなんて、結局、誰かの主観に過ぎないんだし、偶然の価値も、醒めた人間にとっては興味を惹かないかもしれない。そのへんもきっと美術品と同じなんじゃないかな。」築地に着いた。僕たちはなんとなく、無言になって、地上にあがってから手を繋いで歩いていた。僕はふざけて目をつむって、彼女の手を握ると、彼女の細くて冷たいだけが頼りにできなくなったら、彼女は(彼女も)喜ぶだろうか。築地市場に着いて、僕たちはしばらく寿司屋を探したけれど、見つかったのはチェーン店だけで、通好みっぽい渋い店は無かった。彼女も僕も市場で働く人たちの一部は寿司を食うものだと思い込んでいたんだけど、実際に作業着を着た連中は海鮮丼の店で朝飯を食っていた。僕は、彼女がどういう反応をするのかが気になった。食うのは海鮮丼か、寿司か。現実か、幻想か。
結局彼女が選んだのは寿司屋だった。彼女曰く「チェーン店だとしても、ネタの鮮度は市場にあるのと同じだから。」とのことだ。小説家が言うと、普通のことでも、なぜか含蓄が含まれているように感じてしまうものだ。ひたすら寿司を食っていた。彼女が言った言葉でよく覚えているものがある。彼女は寿司のなかで、甘エビがとても好きで3回連続で頼んで(寿司職人が少し戸惑っていた)、そのときに彼女が独り言のように「値段っていうのは希少価値を量る物差にしかならないこともある。」と言っていた。値段が高いものが優れているとは限らない。そういう意味で、僕はある投資家の言葉を思い出した。安手の紙で最後のほうにオマケみたいについてる財務諸表が金色の字で刻印された表紙より価値がある、と。それなら、あらゆる場所に隠されたように、物事の表面からだけでは見ることができな、縦、横、ではない奥行きがある、その場所に何か価値のあるものが眠っているのかもしれない。
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