******************サイン会が終わったあと、僕は公園のベンチに座って名刺を眺めていた。本当に本当にあった話だ。今日、僕は『山下のどか』のサイン会に行った。彼女と翻訳家のトークショウがサイン会の前にあって、サイン会が始まる前、座席に座ってると、隣に、もう夢みたいな(夢に出てくるような、ではなく。夢のような。)女の子が僕の隣に座った!座ったんだけど、もうびっくりしていつもの挙動不審状態。ショートカットに金色と黒と茶色を混ぜたような髪の色をしてて、輪郭は信じられないくらいシャープ、白地に黄色と灰色と黒の大きな水玉柄のワンピース、そのワンピースが小さくて、そのひとの真っ白な足がたった今生えてきたような調子で、それで、彼女が僕のかたを叩いて「ねぇ、隣いいかしら?」だ、なんて、彼女のイタリア(行ったことないけど、)の下町の男の子みたいな好奇心を抑えられない大きな目で僕を覗き込んだ時、僕はもう恋したことに気付いた。先週読んだ、『お気に召すまま』のオーランドゥよろしく僕は狂って、その時僕が彼女にひと目で恋に落ちたことさえ彼女には予定調和、調和するような、世界のあらゆる種類の魅力が含まれた場所について語るような声で、僕に話しかけてくれたときは、もう5回ほど、彼女の前で僕は生まれ変わった。僕が自分自身の破壊と再生を繰り返し続けている間、僕は何かを喋った気がするけれど、覚えてない。それで、その15分ばかりの瞬きの間、その間が通り過ぎて、僕は夢見心地で、本を持って、サインをしてもらおうとしたのに、彼女はにっこり笑って(何も喋らなかったけれど、それは「あなただけで行っていいわ。」の意を口を何度か開くだけでそれを解することができた。彼女は一度も言葉を発せずにも生きてゆけるんじゃないかと思う。)それで、サインが済まされて、(サインは自動販売機でコカコーラを買うよりシンプルで洗練された動きの一連で、終了した。)僕が席に戻ると、彼女はいなかった。トイレに行ったかと思ったけれど、その書店にはトイレが無かったことことに気づいて、それで、どうしたものだろうか、僕はそこで、彼女買った本が誰かに持っていかれないように抱えようとすると、本から名刺が落ちて、それで、要請と了解の完了。しかし、何よりも何よりも、公園のベンチに座って、名刺に書かれた名前を凝視していると、想像力と梃にかけた、魔法がかかってることに気付いたんだ。さぁ、わたしのまえではねまわってみせて、と言わんばかりだ。*******その記事に書かれたコメント********ずっと前からあなたのことを知っていたわ。あなたの’距離’というものを信じていないところが好きよ。もし、あなたが望むなら、手に入るわ。************************
僕がフルカワに名刺を渡した。フルカワは表を眺めて、裏を眺めて、それから、また表を眺めて、また裏を眺めて、それから表を少しの間眺めて、僕に返した。「君はツイてる。」「記憶は傷である。たしか、フルカワさんが言った言葉じゃなかったかな。」「まったく付いてる」僕の言葉を無視して、PCに映った文字を眺めた。それらの言葉は僕たちの知らない、どこかに置いてあるPCの中のひとつの部品に物理的に書き込まれている。存在しているのだ。コメントした日時とともに"2008年4月27日3時47分 金色と黒と茶色"とハンドルネームが書かれている。「どう、思いますか?」「最高だ。」僕は笑って、机の上に置かれた名刺を取り上げて、それから仕舞った。確かに最高だったけれど、逃れようの無い最悪な何かがこれらの出来事に先にちらちらと姿を見せては隠れていた。帰ることを伝えて、それから、いつ訪れても慣れないレコードの柱の数々(前に一度、どこに何があるのか覚えているのか訊いたことがあるか尋ねたことがある。ためしに、僕がMoldy Peachesの『I forgot』の入ったレコードを探してもらおうとしたが、それはレコード化されてないと即答されて、代わりにOperation Ivyの『I got no』が入ったレコードを持ってきた。その時、「全部分別されてるんです?」と訊くと、「されていない。」と答えた。フルカワが言った言葉だ「別けることは分かることだ。分かることが所有することだ。別けられたときや、命名をされ分類されたとき、それらはある種の支配を受ける。別けることはつまり、支配することだ。もし、支配されたくないと、自由でありたい望むら、どんなことがあっても、何かの分類の中に含まれよう、とはするな。」)を通り抜けて、玄関に出ると、ちょうど、フルカワの奥さんが玄関を開けて入ってきた。僕は彼女に罪悪感(フルカワに紹介した、僕の知り合いの女の子のことを思ってだ。いまや、フルカワと僕は兄弟だ(そのことをフルカワは知らないが)。)挨拶をして、フルカワに向かって「フルカワさん、最近恋してますか?」と訊くと、フルカワは笑って首を横に振ったが、フルカワの奥さんは僕を睨んだような気がした。そのあと、電車に揺られながら、僕は世界の構造を想像しようとした。きっと想像できないような構造をしてるのだろう。’僕’は今六本木のスターバックスにいて、文章をさらに前へ前へ進めようとしている。ハプニングバーで働いている女の子にメールをすると、今日から、お泊まり。と返事。彼女は実在する。僕も実在する。そして、文章を綴るほど、この現実への肌触りが薄められていく。僕がたった一人浮かび上がっている気分にさせられるのだ。これを読むあなたは存在するんだろうか?それは僕にとってはより濃密で精密な語られる物の中で、だろうか。あなたのその目の裏側で僕は浮かび上がり、そして5万枚のレコード、それらの作者はもう死んでしまい、そして、夢は消え去るが、それと同じようにレコードのトラックのように、、僕はあなたに存在しようとしている。家で赤の顔を眺めていて、果ては彼ら、カロリーメイツのプロモーションビデオまで眺めていた。小さいおっさんがいる考え付いたような振り付けのダンスが印象的だった。彼らが赤→青→黄の順番でホットドッグを頬張る映像がチカチカと移り変わるシーンで、一瞬何かが見えた気がして、何度も何度も何度もそのホットドッグを丸飲みにする映像を眺めていた。何か、何かがそこには映っていた。30分、それを繰り返して、やめた。ベッドに寝そべって、ぼんやり天井を眺めていた。1000の矢が僕を突き抜けていくが、ひとつを捉えようとするが、それは滑り抜けて、また違う矢が僕に向かって飛んできて、ということの繰り返しで、何ひとつ掴めない。おい、お前はそれだけ立派な面構えで、恋した女は全員君に惚れてたんだぜ?知ってるか?知ってるよ。分かってる。じゃあ、なんで、お前はそこでうずくまってるんだ?意味なんて無いぜ。楽しめよ。分かってる。でも、それでも、そうだな、うまく言えないけど。問題ないさ。君は君の欲しがるものを全てに手に入れるよ。ありがとう。僕は目を開けて、それからPCでpepsico inc.の年次報告書5年分を印刷して、プリンタから流れ出す紙が何かを訴えていた。

フルカワに電話をして、カロリーメイツの『ホットドッグディスコ』の映像の2分20秒から2分40秒までの映像をできるかぎり、多くのコマ送りで再生して、全ての画像のファイルを送ってもらうように頼んだ。「コカ・コーラのマーケティングの効果に関する研究に必要なんだ。」とだけ、なぜそうするのかへの返答をすると、フルカワはそれ以上質問せずに「分かった。」とだけ言った。しばらくあとに画像の置き場所のURLとともに文面には、「最高だ。」と書いてあった。それがフルカワの口癖だった。画像をめくるように表示させていくと、僕の勘は当たった。その画像の中には一枚だけ僕が夢で見た赤の挿げ替えられた顔の赤の顔が映っていた。画像から画像へ映る一枚当たりの時間は100分の1秒だった。その表情は恍惚としていて、破滅を暗示させるような画像だった。真っ暗な黒い色と濃い赤と黒に近い灰色のを織りまぜた背景に、腐った土のような肌の色のをした女性だった。僕はそのビデオを調べるために何度も検索をかけて、調べたが結局、それが誰かは分からなかった。サブリミナル効果(サブリミナルこうか)は潜在意識、意識と潜在意識の境界領域に刺激を与える事で表れるとされる効果。ただし科学的にはまだ証明されておらず、効果を疑問視する学者も多い。映画やテレビ放送などでは、使用を禁止されている。発端:歴史は古く、19世紀半ばから実証研究が始まった。当初は知覚心理学だけの領域であったが、現在は広告研究、感情研究、社会心理学、臨床心理学等幅広く様々な関心から研究されている。未だに謎は多いが、長年の研究の蓄積は大きい。1957年にマーケティング業のジェームズ・ヴィカリが、ニュージャージー州フォートリーの映画館で上映された映画「ピクニック」のフィルムに「コーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」とメッセージが写ったコマを5分ごとに繰り返し挿入し、売上に影響があるかを測定した実験が有名である。フィルムの一コマを人間が認識する事は不可能と考えられる(後述)が、この映画を上映したところコーラとポップコーンの売上が増大したとされる。だがこの実験がどのような環境で行われたか、アメリカ広告調査機構の要請にも関らず、きちんとした論文は存在しない。1962年、ヴィカリ自ら「マスコミに情報が漏れ過ぎた。実験には十分なデータが集まっていなかった」と実験結果の懐疑性を告白している。原理:外界から入力された視覚的情報は、諸々の神経伝導路を経て大脳皮質の視覚野で知覚される。この伝導にかかる時間はおよそ0.1秒である。また大脳皮質の視覚野の時間的な二点弁別能もおよそ0.1秒であり、それより短い時間で完結した現象は不正確にしか認識することができないとされる。一方、サブリミナル効果を与える時間はおよそ0.03秒である。0.1秒よりも短い0.03秒では大脳皮質視覚野が感知することのできる閾値を下回っており、サブリミナル効果をその意図した通りに認識することは原理上不可能であると考えられている。しかし、視覚野に障害のある皮質盲の患者の一部では、患者の前に何かのものが入ったガラスケースと何も入っていないガラスケースを置きどちらにものが入っているかを答えさせると高率に正解するという実験結果や、「4以下ならAボタンを、5以上ならBボタンを押せ」というタスクを課したとき、「6」を0.03秒見せた後に「2」を0.1秒見せたときのAボタンの反応よりも、「6」を0.03秒見せた後に「9」を0.1秒見せたときのBボタンの反応が有意に早いという実験結果などから、視覚野に到達する伝導路よりも素早く伝わる他の知覚野の存在が示唆される(しかしそれは現在まで発見されていない)。従って、もしこれが証明されればサブリミナル効果は存在すると言える。

土色の肌の女の顔は、二人の女性の顔が合成されていた。観客と壇上の山下のどかの二人の中間の顔だ。その第三の顔を眺めていると、めまいがしてきた。僕がwebでそのプロモーションビデオの製作者を調べよたが、どこを調べてもその名前は出来なかった。僕は、そのビデオに隠された秘密に気付いた誰かがほかにいないかwebで何度も検索して、それらの検索結果のいくつかで、その顔を発見したことが、それが誰かを調べようとする人はいなかった。もちろん、気付いた人もいなかった。なにしろ、世の中には存在しない人の肖像。時計を見るとam00:30を指していた。山下の小説のなかに出てくる小説家が、物を書くときは人が死から再生へ移るそのとき、と書いていたことを思い出した。携帯電話の発信履歴からその番号をさがして(名前は"山下のどかという名前の女"で登録していた。)、彼女にコールする。コールしている間、彼女がセックスの最中に電話にでないことを願った。彼女が電話に出た。「はい。」「こんばんは。」「こんばんわ。」「どなた?」僕は誰だろう。僕は僕だけど、それはいつもどこか作られたものだって、思っていた。ある映画のなかで一人の男の誕生した時点から、ずっと生放送の番組として、一種の疑似生活空間のなかでその番組のなかで俳優達に囲まれて生きて、そして、そのことに気付かないという映画があった。男はある日、その偽装に気付き、確信する。それと同時に昔、一度だけ、ほんの一瞬、喋っただけのある女性(その女性は彼をその欺瞞から救い出したいと考えていた。)に再び会いたいと願う。どういったエンディングだったろうか。

「"あなたの本"を拾った物です。」つかのま、彼女は黙って、それから、「なんでこの番号を知ってるの?」僕は混乱した。この番号は名刺をわざと挟み込んだ彼女のしたことじゃなかったんだろうか。「あなたの電話番号が裏側に書かれた名刺が拾った本のなかに挟まってたんです。」しばしの沈黙。「ねぇ、ちょっと待って、その本、どこに落ちてたの?」会場の場所といつだったを伝えた。「ん。ねぇ、私はあなたの本にサインを書いたはずよね。」彼女は、真夜中の海の底のような色の目をしたほうの山下のどかだ。起きた顛末を話すかどうか迷った。迷ったけれど、ここで話さずに、「あなたの名刺を持った誰かの悪戯だったみたいですね。」と僕が言ってしまったら、そこで、名前を失った短い髪のほうの山下との繋がりは完璧に切れてしまうかもしれない。少なくとも今話している山下から名刺を貰う機会のあった誰かなのだ。僕はその時の出来事を白昼夢のことを省いて話した。「ちなみに、僕はあなたにサインを貰いました。覚えていないでしょうけど。」「どんな格好だった?」少し苛立ったような声色で彼女はたずねた。「フビライハンみたいな感じの吊り目の男です。黒いジャケットを着てました。あなたの目の色みたいに真っ黒の。」「列の最後のほうにいた?」「はい。」「なるほど。」太ったアイドルグループのビデオの話もしようとも思ったがやめた。「さっき話した女性のことは知ってますか?」「知っているといえば、知っているわ。彼女ならこんなこともやりかねないわ。」彼女の声の苛立ちは増しているようだった。「茶目っ気のある人なんですね。」「ちょっとおかしいのよ。」僕はまた現実感を失っていることに気付いた。もしかして、僕もあの映画の男のようになったような気分だった。「フビライハン似の君は、彼女に会いたい?」「できることなら。」「考えておくわ。用事があるから、電話切るけど。」「ありがとう。」「どういたしまして。」電話が切れて、僕はベッドに仰向けになって、自分と、他人との距離を考えていた。

僕は仕事をしながら、いつも想像をしている。できる限り、常識の範囲を越えない、あり得たはずの、実際には起こらない物語だ。僕の向かいには痩せ細った利口そうな茶色い目をした女の子が、ドイツ製のプラスチックの椅子に座って、僕と彼女を挟んで置かれた真っ白な机を凝視している。机を凝視する彼女を凝視する僕は、彼女の白い肌と、いつか僕の隣に座った、建築を学んでいる、黒い服を着た女の子を思い出す。彼女は自分をアーティストとして定義していた。10代特有の神経質で透明な感受性が学歴に洗練され、ある種の個人主義の支配に置かれて完成した自己定義だ。向かいに座った女の子は、凝視した目をさらに凝視する。真っ白な机の上には、何も無かった。何もなかった。
「 神   闇闇闇光闇闇闇 神
     ※ ※ 鳥
▲ ※ ‖ ‖    ▲
‖ ‖ ‖ ‖  人  人  ‖ 」
僕は答える。
「喜
悲 不faweofuおうFAEWabl;k   恐 時 勇
faかうowおやふぇeu 恐awef;がえljaふぁうぇjfefa
  色 eaあお;えふぁfw  滅  言 苦
温 fea` {音 女 痛 f aw
=kan=awefhh ++falewa愛lu
eawefawula ae感faあgらwj音   無 無AW#!!1jfao怒窮;eえあwfrlufa
時+awe` ふぉあうえfale;uk;じゃ 記
思..

.

彼女の言葉が空気を無限に揺らしている。僕は彼女と寝たいと思う。記憶がフラッシュバックを起こす。また、あの場所だ。黒髪の女の子の真っ黒な瞳は全てを吸い込もうとしている。そして、吸い込まれた一部になった僕はそのなかで夢を見る。僕は横浜駅西口にあるビルの2階にいて、金色と黒と光の当たり方を変えた瞬間に深い緑にも見える、女の子を見つめている。僕は恋をした。
日曜の午前9時38分、横浜駅近くのビルの2階のスターバックスで’僕’はこの文章を書いている。フィリップモリスインターナショナルの英語だらけの年次報告書を読んでいる。と、いま書けば、あなたは僕がその文章の中から、東ヨーロッパの国の煙草の販売数量を調べている姿を想像するだろうけれど、そんな事実は無くて、それはあなたの頭のなかに浮かび上がった想像でしかない。事実を捏造する。この店のすぐそばには靴屋があって、そこには黒い長い髪の女の子と、茶色くて短い髪の女の子が勤めている。文字、文字、文字、何かを物語ることは、願望の稚拙な達成な達成に過ぎない。僕は煙草を吸わない。僕は傷ついていない。ただ、ただ、もどかしいのだ。
電話が鳴っている、誰からかも確かめずに電話に出ると、「今日イベント来ない?」ムラカワからだった。「........あー、なんのイベント?」「新宿の。」「今日か。」「来る?」「行く。」携帯電話を耳から話して、時刻を確認するとam01:12だった。「30分後くらいに着く。」電話を切って、シャワーを浴びて、服を着替えて、髪を乾かして、アパートの鍵を閉めると隣人が帰ってくるところだった。「こんばんわ。」「こんばんわ。」彼女がふらふら歩いている後ろから、黄色い髪の男付いてきた。隣人が僕の顔を酔って濡れた目(垂れ目でいつも何かを訴えかけるように感じた)で覗き込んだかと思うと、ぐっと顔を逸して、自分の家のドアに鍵を差し込んだ。階段を降りて、自転車に乗って、新宿に向かう途中で見ていた夢を思いだそうとした。
「その映画のまた別のシーンでは、果ての見えない大きな倉庫、その床をヒヨコが何千匹、もしかしたら何万匹かもしれませんが、そのたくさんヒヨコの群れ、群れ表現するのが弱すぎるほどの、床一面のヒヨコが養鶏場の社員がバラまく餌をついばんでいます。社員の通ろうとする道をたくさんのヒヨコは道を空け、餌をばらまいた場所には、黄色がその濃密さを増すように寄り集まっていました。また、いくつかのシーンを経て、それらのシーンはヒヨコの代わりに、キャベツや果物なんかの大量生産の過程を喋る言葉が一切無くひたすら、画面が続きます。その大量生産を続ける機械や仕組み、労働に従じる人たちのまったくの効率の良さ、そしてその圧倒的な効率の良さを追求された、’生産する’という点の無駄の無い機能的で効率的な美しさは、まるで、ある種の美があり、まったく、まったくの芸術作品のようでした。場面は、またヒヨコのシーンに戻ります。画面には、ベルトコンベアに乗せられて運ばれてくるヒヨコの雄と雌を識別する係の人、雌雄識別士とでも言えばいいのでしょうか。彼らが一匹一匹をほんの一瞬で分けていきます。どちらかの性別と識別されたヒヨコは識別士のそばにある何段かんつまれたカゴに放りこまれ、その性別ではないヒヨコは彼らの立つ場所から始まるベルトコンベアに放りこまれます。私は一度、卵を産まないヒヨコがどうなるのかを養鶏場の従業員がどうするのかを答えた映像を見たことがあります。彼は『良い肥料になるんですよ。』と無邪気そうな笑顔で答えていていました。もちろん、私は、彼が残酷で恐ろしい人間だ、とは言うつもりはありません。一度、幼い姪を連れて繁華街にあるデパートのレストランで親子丼を食べる彼女が、(彼女はとても聡明な女の子です。私は彼女といると緊張します。もしかしたら、彼女が密かに頭の中に隠し持つ、では私は取り返しようの無い無知で愚かな人のリスト、その列の一行に分類されているかもしれません。)「ねぇ、親子丼ってね、にわとりとそのたまごを一緒にした料理でね、たまごはにわとりの子供なの。」と、私は彼女がそのとき、邪悪な全てをはねのけるような意思の強い、彼女がそういった全ての欺瞞を彼女だけが持つ、強力な槍で貫くような、そういった何かに包む膜のようなものが見えました。そして、そのとき、わたしは、親子丼なんて、何の変哲の無い食事が持つ矛盾や残酷さ欺瞞に気付かされました。そして、彼女にとって私達はその養鶏場の男と変わりない、無神経で偽善的な一群(そう、餌を群れてついばみ、ベルトコンベアに詰まれてよりわけられ、死ぬまで卵を産み続け、肥料にされ、そして’生産’され、そのことは覆い隠され、いつかひとつの食事になることに気付かない、動物のような。)の一匹のように見えたのかもしれません。彼女は14才の時に自殺しました。遺書はなく、彼女の死体は腐っていて、彼女の面影は無かったそうです。もしかしたら、いや、間違いなく、彼女は自分を殺す前に、自分もその一群の一人であることを十分に分かっていたと思います。輪はまた別の輪を持ち、彼らは工場を持ち、その工場を動かす彼らもまた別の仕組みの中を運ばれて生産される人間の農場のひとつであることを。」男はカロリーメイツがライブで歌っているあいだ、その文章を読んでいた。まったく陰気な女だと思った。男がアルバイトで編集の補佐を始めたころ、何度も彼女にゴーストライターとして文章を書く理由を問いたことがあったが、そのたびに、肩をすくめたり、話をごまかしたりして、やがて諦めたが、この文章を読んでいて(といってもまだ文章のずっと最初だが)、彼女が人、人そのものを軽蔑しているかもしれないと思った。彼女は人が持つ愚かさを呪っている。カロリーメイツが『アンチビーガン』を歌っているのが聞こえる。彼らのプロデューサ(曲と歌詞を作っている。彼女達のヒット曲(200万枚売れた)『肉肉肉肉肉野菜』の歌詞はカロリーメイツのメンバーが歌詞を考えることになったが、思いつかないと泣きついてきいて、手伝ったことがある。)のタニハシが彼らの企画をレコード会社に出して、左遷扱い(社長に紹介した愛人が俺のセックスフレンドの一人だったことがバレたせいだ。)で、彼女達のマネージャーになったが、今でも彼らがなんで世の中に受け入れられたのかがいまだに理解できない。クラブに着くと、ムラカワがカウンターでビールを飲んでいて、カウンターにあるビデオの映像をぼんやりと眺めていた。隣にはムラハシのことを好き(なように僕には見える。)な女の子(彼女はシマという有名な美容室のチェーン店の専属のカットモデルをしていて、アメリカからの帰国子女で、歌手を目指していた。)がいたので、僕は挨拶を後回しにして、トイレに行ってそれからフロアに行こうとすると、ムラハシのことを好きな(ようにしか見えない)女の子が僕を呼び止めた。無口な男を喋らせるにはうってつけなんだろう。

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