「シロっていう名前なんですか?」「シロウ君。ヤマザキシロウ。白熊みたいでしょ。だから、シロくん。」「▲つながりだ。」ポマード(産業革命当時の執事といった風な)がやってきて、ビールを置いていった。乾杯をして、一口飲んで、それから尋ねた。「それで、あなたの名前は?」「私?」彼女が少し驚いたような調子なので、僕も少しびっくりした。「秘密よ。」「秘密ですか?」「そう。」「山下のどか、という名前でもない?」「そうね。」彼女はソファの肘かけと背もたれの間にもたれていて、頬に手を当てて、顎を少し角度を付けて僕のほうを見据えていた。今日の傲慢な態度は彼女の一部なのか、それとも、彼女の常態なんだろうか。「ねえ、’あなた自身’を見せてよ。持ってきたんでしょ。」と彼女は目を細めて言った。その仕草にはどことなく親密さが感じれた。僕はバッグに包まずに2枚のプラスチックのDVDのケースと一冊の本を持っていた。なんとなく、彼女にDVDの内容を説明するのは気が咎めて「ただのポルノビデオです。」テーブルの上に置いたケースについて嘘をついた。「君もそういうの観るんだ?」「まあ。」「どんな内容?」架空のポルノの内容を女性に説明するのは初めてだ。「片方は、芸能界に入るためにしかるべき人物とセックスする設定のビデオです。途中で男が一人、女が二人。女の子たちが最初から最後までその男に媚と身体を売る内容なんですけど、途中で馬鹿らしくなって観るのをやめました。」無名の彼女は顎に角度をつけるのをやめて、興味を僕の話に集中させている。僕はビールを飲んで、それから、さっきの大男と山下のことが頭を掠めた。別に大したことじゃないさ、と自分に言い聞かせて、もう一本の癌患者が死に至るビデオケースに入った赤いDVDの内容の捏造を始めた。「もう片方は、匂いフェチの女性のビデオと乱交物です。男のあれの匂いを嗅ぐのが好きな女の子が出てきて、その女の子は何人も出てくるAV男優のペニスの匂いを嗅いで、それからブロウジョブをする内容。で、後半は男女が乱交する内容で、最初は女4人男4人が合コンみたいなことを家でしてるんですけど、酒を飲み過ぎて、途中から雰囲気が少しずつおかしくなっていって、王様ゲームの内容がキスをさせてっていうのから胸を揉ませて、って段々エスカレートしていくんです。もちろん、そういう演出なんでしょうけど、それはちょっと面白かったですよ。」残りのビールを飲み干して、我ながら良く出来てると思った。
**************ある知り合いの女性(彼女はとてもとても素敵な女性だ。)が昔書いた小説の一部を引用する。
私が物語に愛されている人間かどうかは判らないけれど、間違いなく私は物語を愛している。その中に身を置くあいだ、荒廃した現実から侵されなくなる。そして、私が好く登場人物達は、みんな暴力にまみれた現実を模した世界で傷だらけになっている。血を流しながら、それでも彼らは生き残ろうとするのだ。
それらが高度な自己憐憫に過ぎないと看破されればそれまではあるけれど。
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外は小雨が降っていて、時間はゆっくりと進んでいる。2008年5月31日土曜日20時15分サンマルクカフェ元町店。オレンジ色のソファに座っていて、僕以外に席に座っているのは、禁煙席に座っているのは電子辞書を片手に本を読んでいる男と、そしていつものように詩人(想像)の女の子だ。彼女は黒いコートを肩からかけていて、何かを紙に書き付けている。白いmacBookでカチカチと音を立てて、また一文字一文字、と。これは一種のストレッチである。詩人の彼女が今こちらを向いて、それがミスであったかのように逆の方向を向いた。

「君もそういうの観るんだ。」「男なら誰だって観ますよ。」「ふぅん。ちょっと観てみたいわ。そのコンパみたいなのとか。」こうなっては話を逸さなきゃだ。「僕はあなたが読んでいる本が気になりますね。」彼女はバッグから2冊本を取り出して僕に渡した。ポマードがやってきて酒の代わりが必要か訊いた。「ビール。さっきと同じの。」そしてポマード退場。「分厚い方は『私の牛がハンバーガーになるまで』。「薄い本は、『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』。経済学の本。」「面白おかしい話?」彼女は笑った。どことなく嘲笑的にも見えた。「その人が持つ価値観んよりけりね。この本の作者がこんなことを言ってるの。『欧州で成育される牛は、政府の保護貿易の一環の産業保護政策によって一日2ドルのコストをかけられて発展途上国からの輸出から守られている。その一方で途上国の多くの人々は一日2ドル以下で生活をしている。』。」「価値観?」「そう。価値観。」僕はビールを一口飲んで、考えた。6ドルのビールの価値。それ以上何かを考えるには僕は酒を飲みすぎていた。素面だとしてもそれ以上は考えなかったと思う。 彼女は薄いグラスの中で光る酒を眺めて、それから、僕はコミカルに首をぐるぐる回して何かを考えるそぶりをした。「あなたは何かをコントロールしたい願望があるのかもしれない。」そう言ってから僕は後悔した。これじゃあコントロールしたがってるのは僕のほうだ。「?」「精神分析をしようとすること自体が精神病の一種である。どこかの’心理学者’が言ってました。まぁ、それに従えば、彼は自分自身の精神異常を告白してることになりますけど。「聞かせて。」僕は彼女が洋服の端と太股の境目を神経質に引っ掻いたのを見逃しはしなかった。「聞きたいわ。」「ひどく酔うといつも通信講座仕込みの精神分析を披露したくなるんです。」「私は飲み過ぎると文章を書きたくなる。」「帰りますか?」「今はあなたの精神異常に触れたいの。」ビールを2ドル分きっちり飲んで、それから頭を少し揺すってこめかみを押さえた。「あなたは自分自身の物の見方が唯一無二だと疑ってない。成り立ちを見極めようとすることで、それらを自分の支配下に置こうとしてるような印象を受けますね。」その間、彼女の顎に一層角度が付けられたような印象も受けた。「でも、それは、同時にあなたの深刻な訴求のようにも感じることがあります。」これは出任せじゃなかった。彼女の書いた本は物語とは言えるような代物ではなかったが、何か真摯に問いかける姿勢があった。「ようこそ食肉系の価値観へ?」彼女はイタズラっぽい表情で言った。
店を出て彼女と手を繋いで緩やかな坂道を歩いきながら、ぼやけて見える街灯をひとつひとつ眺めては追い越す繰り返しの途中で例の喪失感を感じた。現実から遠のいて、自分がそこに居るのにまったく違う場所からそれを客観的に眺めている。そういった感覚だ。彼女が僕の顔をじっと見ているのに気付いて、彼女のほうを向くと、初めてどこかに連れ出された幼い女の子みたいに微笑んで、繋いだ両手を乱暴に振り回すようにはしゃぎながら大股で歩き始めた。
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過去に一度、同じように女性とその通りを歩いたことある。彼女は28才で僕はその時20才で、僕は自分の回りのあらゆることに失望していた。世界は厳密にできていない。僕は矛盾を嫌い、欺瞞を憎んでいた。彼女は出身の場所に恋人を置いてきて、その彼氏とは喧嘩しているのだと言った。彼女は僕に甘えさせてもらおうとしていたが、僕は彼女に恋人がいるのに、それを前提に僕に好意を求めることにうんざりしていた。その夜、彼女は酒をしこたま飲んで僕の’介抱’を求めていた。不思議と彼女は全く酔わずに、10月の夜の代官山の駅前で、タクシーが通るのを待っていた。僕はそういった時の適切な対処を知らず、間違った方法と間違ったコミュニケーションとつまらない幼さで、途方に暮れていた。
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