僕は本当のことについて話したい。実在するものをそのまま表示したい。でも、君はそれを見たいとも聞きたいとも近づきたいとも思わない。想像してほしい。君のいるその部屋に化け物がいる。頭が3つ足が4本腕が3つで、蜘蛛と蝸牛と蝿を掛け合わせたような怪物がいる。でもそれを君は認識しようとはしない。それが唸りを上げて触手をあなたの口の中に突っ込んで内臓の中に幼虫を何百匹も産んでいる。でも君は気付こうとはしない。絶対に認めることはない。

「彼のこと、どう思う?」「寝たふりか。」「うん。」タクシーでヤマザキの膝の上で寝ていたヤマシタは小さな声で慎重に訊いた。彼女の小さな頭がタクシーの微かな振動で揺れている。上空1000メートルから見える僕たちは、ゆっくり滑るようにある地点から地点に移動していく点。時間が進む。点が進む。「あなたはいつも本人がいない場所でその人のことを話さないのね。」「そう?」「うん。」顔を進行方向から仰向けに振り返ってヤマザキの喉から耳の裏にかけて手を重ね、動かしていった。「お話をして。」バックミラー越しにヤマザキを見ていた運転手と目が合って、運転手は逸らした。到着まで10分だろうか。「ある男の話だ。その男は1977年、静岡に生まれて、厳格な父親と心の弱い母親に育てられて、年の離れた兄が二人いた。その家庭の食事光景は凄惨で一言でも無駄口を喋れば平手が飛ぶ。そういった家庭だ。男の父親は小学校も出ずに小学校戦後工場(物の例えではなく、喧嘩になればスパナで全力で頭を割ろうとするような場所だった。)で働いて、身を起こした男で、粗野の町、粗野の男に囲まれて育ってきた男で、家は裕福だったがそこに牧歌的な空気は少しもなかった。父親が彼を褒めたことは一度もなく、一日に二度は男のことを殴った。男が通っていた小学校・中学校は男の父親の生き方をなぞるようにタフな場所で、男の友達の二人に一人はヤクザになった。そこから抜け出すために受験の半年前に勉強を始めて県で一番の進学校に入った。男の頭の切れは群を抜いていて、マンガ本一冊無い家でそれの代わりに百科事典を読んだ。男は浮力の原理を理解していた。ラクダの瘤の成分を全て言えた。男は高校を優等の成績で卒業して、東京大学に入った。東京に来て男は髪を伸ばし茶色に染めた。もし実家でそれをすれば丸刈にされただろう。彼の興味深いところは、そのナリで慶応の飲み会のサークルの連中に混じってクラブで女の子を追いかけてたわけじゃなくて、東大で陶芸部に入った。男は見かけと中身のギャップがあることを楽しんでいるようにも見えた。自分に惚れた女性に興味を示さず、いつも自分のことをまったく分かっていない、毛嫌いするようないかにも真面目な女の子を好きになった。就職活動をしたが、彼のことを一目見るなり横線を引く人事担当達をくぐり抜けて、結局男は職を得ないで大学を卒業した。そのころ母親を殴っていた父親が興奮し過ぎて頭に血が昇った拍子に倒れて、男は丸々4年ぶりに帰郷した。点滴を繋がれて小さくなった自分の父親を眺めて、男は決心して病室を出てその日から勉強を毎日13時間して一年後司法試験に合格して、陶芸部で知り合った女と結婚した。女を連れて一年ぶりの帰郷をすると家に母親はいなく、さらに傲慢になった父親だけがいた。それから間もなく男が弁護士になって最初に手を付けた仕事が彼の両親の離婚手続きだった。」
一息つくと、「それで終わり?」とヤマシタ。「そこで男が自殺して人生が終わったりはしないよ。もちろん、彼の人生は続く。」でも、小説になるようなことは、男にとって幸か不幸か何も起きない。それはヤマザキが考え出した作り話ではなく、実在の男だからだ。男は天命を受けて東南アジアの内紛に身を投じて傭兵になったりはしない。偶然知り合ったハリウッドの著名な監督と知り合って、一夜にして世界規模の知名度を持つ映画スターになって、南フランスの海岸で同じ位有名な女優とセックスしているところをパパラッチに盗撮されたりはしない。これは実在の男が打ちのめされるだけの、どこにでもある(そして絶望的な)話なのだ。僕たち中産階級は歴史に残らない。「男は両親の離婚の手続きを粛々と始めたわけじゃない。そもそも男はその話を断りたかった。こんな馬鹿げたことできるか、と。いざこざになるべく関わりたくない親族は彼に仕事として押し付けて結局その役目を男は執り行うことになった。それから、最初、彼らの取り持ちをしてできる限り離婚しないようにする。なんて言ったって家族なわけだし。父親は半ば母親を勘当するような具合に追い出して、60才を過ぎた母親は6畳の部屋アパートに身を寄せていて。なんとかビルの清掃の仕事を見つけた母親は朝から晩まで毎日働いていた。説得を何度も繰り返した末に離婚が避けられないことを悟ると、離婚手続きを始めた。父親に母親に財産分与を認めさせる息子、という図だ。うんざりするような一連の手続き(親から親への罵声。人間性への累々の悪意に満ちた言及。土下座に、暴力。)を済ませた時、男は急激に更けて、そして子供ができた。」ヤマザキは話終えた。ヤマシタは何も言わずに車内の天井を眺めていた。面白おかしい話じゃないのは話を始める前から判ってたはずだった。「これで終わり。」「ねぇ、それってあなたの知り合い?」「そう。」
首から肩、肩から腕、指先、上半身の前面、身体の向きを変えて背中、尻、太股、ふくらはぎ、つま先まで、それから、それから?彼女の瞳が曖昧になっている。僕の目、彼女の目。残った部分を触れて、彼女の母親が寝ている赤ん坊をあやすような声。僕はうつむいて頭の後ろを掻いた。バスタブの栓を抜いて湯が抜けていくと、彼女の控えめで綺麗に整った胸と、僕の細い身体が泡の上から生えているようだった。僕の一部に意識が奪われていっている。のぼせていく。声が聞こえるけれど、それは僕の声のようには聞こえない。意識が何度も飛びそうになる。何も考えられなくなる。僕が持ち合わせる意識のコップから感覚のコップに注がれていく。反射と反応をするだけの物体に変わっていく。声が聞こえる。彼女が腕を止めて言った「子犬みたい。」彼女のもう片方の腕に付いてる指先が僕の尻の下のほうに滑っていく。排便が逆流していく感覚がした。世界に一つだけしかない奇妙なドアノブを何度も捻っては戻すようにする手と指先の動きに力と速さが加えれる。彼女の声が聞こえた。「くんくん鳴く犬よ。」のぼせている。息が抜け出していくようにして低い声で唸ってみせると、彼女のもう片方の指が二本から三本に増えた。自分の身体の芯で何かが飛び散って意識が飛ぶと、オレンジと黄色と白色の混じったバスルームで自分が空転したように感じた。そのあと、指は4本にまで増えて、ドアノブを捻り取るようにして、僕は3回空転した。そのあいだ僕は自分がただの物体になっていた。まるで別の生き物のように身体が無くなったようだった。懇願すら聞き取られず、果てに、僕は小便を漏らした。彼女は息がうまくできない僕の頭を胸に抱えていた。僕は目に映る光の跳躍を凝視していた。首筋にキスをして彼女の顔を眺めると『恍惚』という言葉を表現していた。口は少し開いていてそこから小刻みに息をしていた。頬は赤く染まっていて、目は端が下にさがって濡れていて、いまにも溶けそうだ。彼女はもういちど僕の頭を胸に寄せて、格闘家が筋力をアピールするような調子で全力で頭を胸に引き寄せた。僕は喉を鳴らすように「ううう。」と唸って目をつむった。頭の裏側で黄金色の稲田が投影されて、そこに風が吹き抜けていった。力を一瞬緩めて、もう一度彼女が圧倒的な力で僕を包容すると、1兆個の目に見えない集めることすら叶わない粒子が、地球の片側から片側へ通り抜けていくように、僕の全身を貫いていった。これは、夢だ。

ヤマシタが眠った隣で真っ暗な部屋で、さっき話した、実在する男の話ではない違う話を考えていた。もっとささやかで、シンプルで、なおかつ核心に触れる決定的な話だ。ケッテイテキな。
これは僕が17才、最高の年齢、最高に不安定な若さの僕の話だ。学校帰りの夏のある日、新宿のデパートに入ってる本屋を目指してエスカレータの乗っていた。何か欲しい本があったわけじゃない。何か心を揺さぶるような衝撃的な本との邂逅があるとも思えなかった。エスカレータでそのデパートの8階で降りて、エスカレータの脇に備え付けのベンチに座っている女の子に目が止まった。一目でその女の子がその空間から浮かび上がってることに気付いた。彼女を含むその空間が婉曲されてるって言ったら大げさかな。とにかく、頭のてっぺんから足のさきまで特別性の女の子。それでも、僕はそこに釘付けにされはしなかった。あと14才若かったら、そこで彼女のほうに吸い寄せられていったかもしれない。でも、無価値な分別を装備してる僕は、哲学書のコーナー、新書のコーナーを抜けて、科学の本が揃ってる棚の方に歩いていく、そうすると、僕の肩と腕にバッグが当たって、追い越していった誰か。もちろん、さきほどの彼女だ。彼女は後ろを向いて、僕を見てにこりと笑った。僕は教育の中で女性が後ろから肩にバッグをぶつけて自分を追い越していったときの対処法を学んでいたわけじゃないし、それに血のめぐりが良いほうでもない。早足で歩いていった彼女は突き当たりの棚で足を止めて本を手に取った。そのコーナーには『数学』と書かれていた。すーがく。僕はそこで本を取ったことがある。3秒本を開いて閉じて以来その棚にある本を手に取ったことはない。科学の棚に置いてある本を手に取って、彼女を眺めていると、彼女は確実にそれらの本(しかも棚の端の方にある分厚くていかついやつ)を読んでいた。理解していた。僕は彼女の立場をトレースする。目の前を通った男を認識、男前だ、よし口説こうと決心、ベンチを立つ。これらは2秒もかからなかったはずだ。僕は理解する技術に関する本を読んでいて、著者が本の中で数学の効能は数を速く計算するだけでなく、その過程で決心する力が付く、と論じていた。彼女はその棚の前でぺらぺらと本を読んで3冊か4冊読み終えていた。僕は自分の決心がされるのを待っていた。そして彼女は僕の方を一瞬眺めて消えた。僕がエレベータでその階に付いてからトータル5分もかかってなかったと思う。僕はそのあと、本屋をぐるぐる回って、店を出て、近くの喫茶店で考えていた。僕は何度も彼女と一緒に居る様子を想像したけれど、うまくいかなかった。彼女は他の人達の3倍の速度で生きる。彼女は僕に苛立つんじゃないかと思う。いや、彼女は誰といても、誰を見ていても苛立つに違いない。彼女は彼女の世界に居て、そこであらゆる物事は組み上げられ、分解され、何事も明確に秩序だっている。彼女は彼女の世界に今もいるんだろうか。
ヤマザキはヤマシタの頭を撫でて、彼女の穏やかな寝息を聞いていた。部屋は真っ暗だが、確実に物事は変わり、時間が進んでいる。あの男もどこかで息をしていて孤独を咀嚼していて、数で秩序立てられた彼女は認識する世界を組み直し適応し、そして、あの子は今も。

バスタブにこびり付いたものが固まらないように水で流すと、彼女の緊張の糸が抜けたようでそのまま僕の身体のもたれかかった。シャワーから出る水をお湯に切り替えて、彼女と僕の身体に付いた泡を流してそのままバスローブを着せて(僕は腰にバスタオルを巻いて)彼女をベッドまで運んでいった。5時間前にヤマザキから学んだやり方で。廊下に付いてる扉を端から開けていった。一つ目は書斎で壁一面に本がびっしりと並んでいて、二つ目の部屋はクローゼットになっていて様々な洋服が沈黙するように吊るされていた。三つ目の部屋が彼女の部屋でそのベッドには先約がいた。小さな女の子が眠っている。僕はそれが何かの間違いだと思って(オルガズムが激しすぎて頭のネジが外れちゃったんだ)、扉を閉じて廊下に出て次の部屋を開こうと思ったけれど、残りは、うんざりする家具のあるリビングとキッチンとバスルームとトイレだけだった。今度はゆっくり慎重に扉を開けて、明りが部屋に入らないように少しの隙間から音を立てずに部屋に入った。その段でさっき眠っていた小さな女の子はシングルベッドの真ん中で眠っていたことに気付いた。微かな電子時計の照明をあてにして、目を凝らすとやはりベッドは占領されていた。一瞬手元の彼女を床に転がしてしまおうかとも思った。でも、だからといって、あの小指ほどの大きさの女の子を起こすのはもっと間違った行為に思えた。それに起こして僕の顔を見て「あら、こんばんわ。こんな時間にいらっしゃるなんて、ちょっと礼儀っていうものをあなた知らないんじゃないかしら。」なんて言ったりはしないだろう。途方に暮れてその場で立ち尽くしていると、ベッドのほうから「おかあさん?」と聞こえた。か細くすがるようで、心の特別やわらかくなっている部分をくすぐるような響きがあった。「おかえり。」観念するしかない。ドアのそばのスイッチを入れて部屋の灯りを付けた。予想を越えて、彼女は驚かなかった。そして、こっちを睨むような悲しむような顔でじっと見ていた。長い沈黙があった。「君のお母さんの友達なんだ。」「こんばんは。」「こんばんは。」たぶん僕はひどく間が抜けて見えただろうと思う。「お母さんを寝かせたいんだ。すこし場所を分けてくれないかい?」彼女はくるくるベッドを転がっていって、場所を空けてくれた。抱いている彼女をベッドにゆっくりと置くと、彼女の娘はゆっくり顎の角度を少し上に上げて僕を測るように見た。「ごめんね。」と僕は彼女の娘に言った。本当に本当に本当に僕は謝りたい気持ちで一杯だった。「すぐ帰るよ。」「そう?」可愛らしい声で彼女の娘は答えた。「うん。」娘は僕に毛布の半分を渡してくれた。それを彼女にかけると、僕はそのまま一切の無駄なく行動した。「おやすみ。」と二人に言って、消灯して、ドアを開けて、廊下と洗面所に馬鹿みたいに脱ぎ捨ててあるを洋服を広い集めて、居間に置いたDVDのケースを持って、この部屋も消灯して、玄関で靴を履いて、そのとき家の鍵が閉められないことに気付いた。振り向くと廊下にぼんやり立つ小さな彼女が目を擦って「オートロック」とだけ言った。もうほんとにうんざり、っていう感じだ。混じりっ気なし100%純粋な嫌悪だ。追われるような気分で、「おやすみ」と声をかけて外に出ると夜が明けていた。色んなことがありすぎた。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索