僕がこの男について考えるときに、なぜか関係なく思えるけれど、いつも連想させられることについて書きたい。
自分の自我、不自由から解放されて自由になりたいと思うときに、感じるほど、自分が自分のためのものではない、という意識だ。
僕は宗教を信じていない。戒律を信じていない。けれど、神を信じている。矛盾してるように見えるだろうか。信仰とは無縁だが、同時に祈りについて信じている。祈るとき、使命なんて生易しいものではなく、僕は生まれたときから自由であろうとしていたことを思い出す。
たしか3才のころ、保育園の運動会で、よーいどんで周りの連中が一斉に同じ方向に走っていったとき、僕はただひとり地面の砂に絵を描いていたという。これは母親が言っていたことだ。その絵は彼女には何の絵か判別がつかなかったそうだ。

**************この男(仮にMとする)がが初めて恋した女の子については散々聞かされたので、僕は今で女の子が実際に会ったように錯覚してしまうほど、身近に感じられる。彼女は横浜駅の近くのビルにある靴屋の店員で、彼が12才の時に恋したというその人は既婚者で(左手薬指に指輪をはめていた)、
それで彼女との何も起こらない関係について聞かされたとき、僕はMの臆病さに少しだけ嫌気がさしていた。それと同時に、彼が彼を好くその髪の長い女の子に対する見当違いでありつつも、ほかの人には到底できないような配慮や優しさに感動した。僕はその瞬間にMの失恋が決定したのことが分かっていた。Mはそのことに未だに気付いていないだろうけれど、そういった種類の優しさをとても大切に思えた。いつも僕をうんざりさせたのは、我が物顔で邪魔な物を押しのけて恥知らずに周り人を壊してそれに気付かない鈍い人達だった。僕はずっと前にそういうナイーブなやり方に見切りをつけたし、ほとんどの人達は、そういった異常とも言えるくらいの他人への共感や繊細な心遣いや公平さに対する姿勢というものの存在にすら気付かなかったし、そういったことが僕の他者への軽蔑に直結していることも分かっていた。ただ、彼は最後の最後までその姿勢を捨てはしないだろうということが僕には分かった。僕が見切りをつけたものを彼は大切にしていた。
いつか、僕とMがひどく酔ったときに、モラルに関する話をしたとき、利己か利他かどちらかしか選べないとき、どちらを選ぶか、という話になったとき、彼は真っ直ぐに僕の目を射抜いて「そんなこと訊かなくなっていいだろ。君がどういう風に言うかなんて僕には分かってる。」

窓の外では大量仕入の中学生向けの洋服屋のネオンと、全国チェーンの飲み屋の看板、あと、美容院、古びた靴屋が見える。僕が小説を書き始めた理由は、僕の話を聞いてみたいと言った人がいたからだ。その人はもう見えなくなってしまった。実をいえば、そうなってしまっては僕に物語を語らせる動機は何も無くなってしまった。それだけが僕を動かしていたものだった。あなたが何かを伝えようとするとき、それに耳をすませる人がいなければ、真夜中に真っ暗な部屋でする独白になってしまう。恐ろしいことでもあるけれど、それはぼくにとって真実だ。もしかしたら、僕もほかの小説家がするように娯楽を提供し、そしてその対価としての金銭を稼ぐことを目指すべきなのかもしれない。いずれにしろ、いつか僕は僕を強く必要とする人がいないと理由から何も唱えなくなってしまうように思える。何人かの多くの人に囲まれながらも、孤独でいる人達を知っている。僕には感じ取ることができる。彼らが抱える、彼らが物語ることでもしかしたら解消することのできた、わだかまりや、孤独や、言葉を吐き出すことができないまま閉塞のままいることも。知らないわけではない。それどころか、僕はそれに触れることさえできそうになることだってある。"シロ"がしたような、人生に打ちのめされただけの男の話や、それ以外に僕が浴びるように眺めて、そして通り過ぎた人達が物語ることができなかった彼らの物語を僕が代わりに話、そして彼らを解放することだってもしかしたら僕にはできるかもしれない。僕の母親は人の話をしていると、それに対して必ず否定的でネガティブなコメントをする人だ。そしてそのうえ話をしている途中で遮るようにして、だ。彼女のことを軽蔑すればいいのか、憐れむべきか、ともかく、僕は様々な話をすること試み、そして、やめて、やがて諦めることになった。(うんざりするような人間は沢山いるし、彼らがうんざりするような人間になった根拠になるような育ち方や、それを形作る理由の過去もあったんだろう。ともかく、それについてはここでは書かない)多くのことを喋らないまま、沢山のことを抱えて生活することは、容易に慣れてしまえるぶん厄介で、頭の内側で渦巻く思考や感想を重荷として背負っているのは、いつかあなたをそこに埋めて動かないようにしてしまう。ただ、僕が切実に必要としていたのは、話を聞いてくれる寛大な母親なのかもしれない。それとも、共通の趣味を持った親しい仲間だったのか。シンプルな実例がある。精神障害を負った少女はとても上手にピアノを弾いた。彼女はどんな曲でも一度聴くと、つぎの瞬間には全く同じようにそれを弾けた。彼女はある日を境にピアノを一度も弾かなくなった。介助人の女性が交通事故で死んだ日からだ。表現すること自体は僕にとって何の意味もないことだ。僕がどれほど上手に象徴を操ることがあったとしても僕はそれを自慢に思えたことなんてない。ただ僕はそこにいた。そこはひどく暗くて寒くて空気が薄い。そういった場所には長くいることはできない。誰にもできない。誰も彼も自分の悩みや葛藤やトラウマ(この単語を持ち出す度に大げさだと思うがそれに代わる言葉が見当たらない)を誰もが抱えていて、それに付きっきりになって、誰も自分以外の誰かも同じようにそういったものに足を引っ張られていることにすら気付かない。もし、あなたが仮に1日だけそういった種類の大げさなトラウマから解放されたと同時に、他人の足にまとわりつくそれらを見透かす洞察を得ることができたら、と僕はときどき考える。
「たとえばこういうことだよ。」と僕はのどかに向かってはっきり言った。「僕は恋をする。パルコの地下のレコー屋の店員の女の子にね。恋をした理由は彼女が僕に対して大きな、そしてすこし離れた両目を濡らして僕を見つめたからで、それだけで僕には十分だった。むかしから、他人の気持ちを自分に伝染させるのが得意で、とにかくそれが綺麗な女の子だったらなおさら。僕が彼女に会えたのは二度だけだった。それから彼女には会えなくなった。何度か(7回目くらいだったと思う)のとき、僕は思い切ってメガネをかけた男の店員に彼女のことを尋ねてみたんだ。ロシュフォールの恋人たちのサウンドトラックを聴いて、自然を装って(もちろん全然自然ではなかったけど)、『このくらいの背の女の子、最近見ませんね。』って。そうしたらメガネは僕に『ああ、あの子はときどきしか来ないんだ。』って。僕はその帰り、どうしていつもこうなっちゃうんだろうな、って思いながら帰りながら、二度目に彼女に会ったとき、店先で後ろを少し向いたとき彼女の手の中に携帯電話を握りしめていたことを思い出した。僕はいつもどうしようもなく鈍くなるし、タイミングをうまく掴むことがまったくできない。そのことで何度も何度も何度も損をしたし、それで彼女との恋を失ったんだ。」僕は息をゆっくり吐き出して続けた。「とにかく、もう過ぎたことだけれどね。考えたって仕方がない。」
横浜みなとみらい、横浜美術館の近くのスターバックスでこの文章を書いている。8月の下旬の秋が差し迫った頃に降る雨で、外は少し寒い。さっき僕は『夜と霧』を読み終えた。内容は、第二次戦争下のドイツの強制収容所での体験を、心理学の医師がその体験の記述と分析をするというものだった。その本のなかで彼は極限状態においての考えの持ち方で非収容者の健康状態が変わることについて言及していた。一つの例では夢のなかである日自分が解放される日を告げられた男が、実際にその期日になっても解放されなかった。そうすると、病気にかかりすぐに死んでしまった。もう一つの例は、クリスマスの頃には戦争が終わるという噂が広がっていた病棟で、年が明けても戦争が終わらなかったために、その病棟では大量の死者を出した、というものだった。生きることに対して期待をする者と、生きることから期待される者との違い、について書かれた文章では、前者は目標を持たず、現在の悲惨な状態が続き、そしてそれがいつ終わるか分からない状態で、自暴自棄になりやすい、そして後者は、生きることから期待される(例えば、帰りを待つ家族がいる、やり残した仕事。)そういったことを持っていて、将来に対する目標を持つということで、苦痛や現状へ立ち向かう、と、書かれていた。もう一点、慣れてしまう、ということについてだった。多くの暴力、絶え間ない空腹、睡眠不足に置かれると、人間は感じることをやめてしまう、ということだった。死人にも殴られることにあざけられることにも、パン一切れで重労働に就くことにも、寒さに凍えながら狭苦しいベッドを仲間達と分け合うこと。いま自分が置かれた状態をもう一度眺めたい。いま、何か、未来に対する希望を持っているのか?ノー。自暴自棄になっているか?イエス。「人生に何か期待できるか?」ともかくこうやって僕は文章を書いている。僕は他人や人生への期待を無くしてしまった。人生から僕への期待について考えていた。僕は僕を必要とする何かを必要としている。そうだろうか?
「他人に対する失望?」とのどかに僕に問いただした。「そう。」僕は彼女と彼女の娘を連れて海に来ていた。日が照りつける砂浜で僕たちは座ってビールを飲んでいた。ユキはあぐらをかいた両足の上で優美な猫のように眠いっていた。僕はビールを飲み干して新しい缶を開けて一口飲んでから眠たげに言った。「ほら、僕がいつだか書いた友人の失恋の話。本屋で恋していた女の子が男にケツ撫でられてたっていう。」僕は遠くで浮かぶウィンドサーファーの陰に目を凝らしてた。「なんていうんだったかしら。えーと、ゲシュタルト崩壊。凄い語感よね。ゲシュタルト崩壊。」僕は影が一つ強い風をうまくいなすことができなくて倒れた。「何それ?」「その人が信じて、その人の性格とか生き方を支えていた世界観とか価値観が崩れてしまうことよ。」「うーむ。」と言って僕はビールを飲んで、ゲシュタルトという人物を考えていた。人物の名前かどうかは知らなかったけれど。僕の考えではその男はドイツ人で、いかめしい顔をして、些細な習慣を狂信的に毎日繰り返す人物だった。「それで?」と彼女が僕に続きを促すとすこし考えて(僕は酒を飲むと思考が輪を走るネズミのように高速で動く)「そいつが、それまでに大切にしていた他人のロマンチックな成り立ち、いや、はっきり言って現実離れした妄想だと思うけどね。とにかく、好きになった人たちが美しくて勇敢で強い人間であってほしいと思ってた。でも、現実はそいつとそいつのような人にあつらえて作られたわけじゃなくて、もっと醜悪で混乱したものなんだ。」ユキの頭を撫でると、ユキは彼女の大きくはないけれどひどく上品な胸に頬を擦り付けて、心地よさそうな声色で唸った。「ねぇ、私はいつも思うんだけど、そういった現実を見据えることができない、そういった人って私好きよ。いつも傷ついている人達。」とのどかは言って500mlのビール缶を空けた。「僕はいつも思うんですけど、もし誰かが良い人、とにかく他の人達よりずっと大きくなりたいって思うなら、その人はその人と同じように良くなろうとしない人達とはできる限り関わらないようにするべきだと思うんです。そういったやり方を後ろ指さす連中もいるかもしれないけど、でも僕は知ってるんです。本当にうんざりするようなことがどういうことか分かるんです。僕が言いたいのは、ドアをノックするまえに、その中にいる人がドアを開くような人間かどうかを考えなきゃいけないっていうことです。もしその中にいる人間がドアを開く勇気が無いように見えるなら、さっさと次のドアに行くべきだってことなんです。」僕は頭をかいた。「僕は昔、ノックの音が聞こえるたびに部屋の電気を暗くして隅で膝を抱えて震えてた。だから僕にはそれがどういうことか分かる。それでも、もし向こうの人間がいることも、なんで怯えているのか痛いほど分かっていても、それを過ぎ去らなきゃいけないと思うようになったんです。」僕は日差しがこれ以上ないほど、穏やかに自分を包むのに気持ちを任せた。ふと、いつだかセックスした女の子とその日の朝、渋谷のVironというフランスパン屋の二階で朝食を食べながら、茶目っ気のある目で僕をみて「いっつも一人で行っちゃうんだから。」と言ったことを思い出した。その時僕は彼女になんて言ったんだっけ。「その友達、なんていう名前だったかしら?」とのどかは言った。僕はTシャツに砂がつくのもためらわずに寝そべりながら言った「ゲシュタルト。」太陽が目にしみる。太陽が溶けてこぼれ落ちてきて、それを舐めることができればいいのにと思う。それを舐めると、幸福な気持ちで全身が満たされて永遠の眠りにつくのだ。「ゲシュタルト・ムラハシ。」と彼女の背中に向かって言った。彼女は笑わなかった。「そのムラハシ君のこと教えてよ。」「マンガを沢山読む。あと沢山寝る。好きな作家は藤子A不二夫の『ヒットラーおじさん』。読んだことありますか?」「無い。」と言った。それが、ナイン、というドイツ語の平凡な単語にも聞こえた。「その彼ってやっぱりその日からずっと崩壊しちゃったままなのかしら?」僕はしばらく考えて(もしくは何も考えていなかった)、それから「もしあれが、ああいった出来事を崩壊だっていうなら、世の中のほとんどの人達は建設すらされていないことになると思う。」

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