夜中の2時に探している物が見つからない。自分が長い間ガラクタ集めばかりしていたんじゃないかと愕然とする。これは天啓に近いと思ったが、よくよく考えてみれば、誰だって同じだ。パルコの地下のレコード屋は移転した。それから僕はその店に行っていない。午前3時にいったい何を手に入れてきたのかを通して自分と向き合うことは疲れる。ひどく疲れる。もし本当に何かを手に入れたいと望むとき、冷静になる必要があって、冷静になるためには、その対象の価値を見据える必要があるけれど、冷静に捉えた対象に価値を感じるんだろうか。夕方に近づいて、僕たちは立ち上がって、ユキを起こして、海岸をあとにした。駅までの道のりを歩きながらのどかは僕にたずねた。「ヒットラーおじさんってどういう話なの?」「ヒットラーのそっくりのおじさんが近所に越してきて、近所の人をファシストに変えてく話。オチの無い話だったな。」「ふーん。」ユキは僕の背中でおぶわれて眠っている。電車に乗ると、のどかは僕の肩に頭をのせて、どこでもない中空を眺めていた。やがて彼女が眠ると、代わりのようにユキの目が醒めた。「こんにちは。」とユキは僕に挨拶をした。割と礼儀を重んじるタイプなのだ。「こんにちは。」と僕が彼女に言うと、大きな目を細めて僕の顔を覗いた。その目に無限の好奇心を隠していた。「お腹すいた。」僕は自分のポケットの中から食べかけで溶けかけの板チョコレートを取り出して彼女の小さな(やがて無限に大きくなるであろう)手に載せた。それをむしゃむしゃと頬張っている彼女は、前に会ったときよりずっと実年齢に近く見えた。そのチョコレートを僕に"食べる?"といった風に僕に差し出したけれど僕は首を降って断るとまた夢中になってかじり始めた。口の横に付いているチョコレートを指で取ろうとすると、彼女は一瞬身体を緊張させて、そして嬉しそうな顔で笑った。夕暮れの太陽が沈むように落ちていく様を眺めていると、ユキはチョコレートの付いた手で、膝の上に置いた小指を握った。17才か18才の頃、夕方のこの時間に理由もなく涙が出たことを思い出した。悲しいという気持ちは無かったが不思議と涙を流していた。いつからか、その症状は消えた。人の行動とか習慣が無意識に移るのは好意にどれくらい影響されるんだろう。そういうわけで僕は小説を書きはじめ、夜の2時過ぎの酒を飲むようになった。本当のことをいえば、僕に必要だったのは、夢の実現じゃなくて、夢そのものだった。やけに綺麗な格好をしたムラハシが駅の前で僕を待っていた。その姿がやたらと頼りなく見えた。まわりから姿が見えてしまっているかどうかを気にする透明人間のように思えた。六本木に9時に付くと、目についた飲み屋に入って気付けのためにいつものようにビールを飲みはじめた。「どんなイベント?」と僕が訊くと、「え?」と僕に聞き返した。「緊張し過ぎだよ。」とムラハシに言うと「そうかな?」と言って異常なペースでグラスに残った半分のビールを一気に飲み干した。「ちゃんとした格好してこいって言っただろ。どんなイベントなんだよ?」「成金が住むビルの上のほうでやるイベント。バーを貸し切ってやるパーティーなんだって。」「金持ちが来るのかい?」「さぁ。でも金を持っているように見えるやつは来るだろうな。」「くそったれ。」ムラハシはぼんやりした顔で頷いた。
大きなビルの上品なエレベータ。いや、下品なビルの小さなエレベータ。と言うべきだろうか。それに乗って二人して一種の加速装置のような箱に乗り合わせると、緊張まで加速するように思えた。エレベータに乗っている最中僕はムラハシに告白した。「このビルの住人になりたい、って俺が言ったら軽蔑する?」ムラハシは答えなかった。聞いていなかったのかもしれない。扉が開くと、僕達が(いや、僕が)予想していたよりずっと友好的な雰囲気のある場所だった。全身ブランドの服で固めた女もいなかったし、眩しくて秒針が確認できないような腕輪を付けた人もいなかったし、金歯を詰めた男もいなかったし、明らかに高級売春婦と見える女の子を連れた腹の出た男もいなかったし、身振り手振りの激しい必要以上に声の大きい人もいなかった。
入り口では訓練された犬のような物腰の男が招待券を受け取って、粛々とその物腰で人を通していた。二枚の招待券は何か珍しい紙を使っていたようだった。バーカウンター、ソファー、テーブル、床、客、そのどれもが、それぞれ調和していたせいで、僕達がそこで場違いにならないように、できる限りの丁寧に身を潜めようとしたが、ソファに座った途端隣りの女性にムラハシは声をかけられたが、吃りもせず平然と答えたので違うように思えた。どの人もお互いの端だけが触れるようにして会話する人達を眺めていた。ずいぶん長い間求めていた、そしていまも求めている空間や人々が目の前にあって、それに触れることだってできたのに、本当のことのように思えなくてそれが可笑しかった。バーカウンターの向かいに立つバーテンダーの女の子に目が止まった。短い黒髪と高い背と広い肩幅、時間が止まりそうな冷たい目元をしていた。5秒間目が合って向こうが目を逸らしたの確認してから、ムラハシに酒を取ってくると言って席を立った。人を何人もくぐり抜けて、カウンターに手をかけて経過の手触りを楽しんだ。「どんなお酒があるの?」と訊くと「なんでも。」「メニューが無い。」「今日はタダなの。」僕は弁解したくなった。こういう場所に来てお酒を飲むのは初めてなんだ、とか、とにかく。「ビール二つ。いや、ジントニックとディタオレンジ。」彼女の細い指や首、顎の線なんかを眺めていた。「いつもここで働いているの?」と彼女にきくとかなり控えめな態度で「ええ。」と、だけ答えた。けれど、彼女のような態度をする女の子はみんな脆い。強い人間は強いフリをしない。タフに見せようとするのは、そうではない証拠だった。

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