土曜の昼、青山のビアガーデンのテラスで、フルカワは、のどかに洋服を渡された。バンダナ、ダンロップのリュック、スーパーで買った1000円くらいのスニーカー(これはきっと子供向けの戦隊モノの絵柄のスニーカーの柄の靴の隣においてあったはずだ)、よれた熊の大きなアップリケが真ん中に張ったシャツ、漂白されたような生地のジーパン、などなど。のどかは得意気な顔で「そのシャツは私が作ったのよ。アップリケを探すのが大変だったの。」と言ったが、フルカワは呆然と、「きちっと刺繍が出来ていて良いね。」と言い返した。「それで、どうすればいいの?」と、いちおう付け加えると、のどかは「着るのよ!」とはっきり言った。これ以上ないくらいの自信を持って断言したので、そこに反論の余地がないように思えた。畳んで渡された赤いバンダナを広げてみると、彼女のいたずらっぽい茶目た笑顔がもっと、楽しそうになった。「明日、秋葉原に行くの。行ったことある?」「昔、IT屋を兼業してたときによく行ってたけどさ、こんな格好してるやつばっかりじゃないんじゃないか?」と提案をすると、のどかははっきりそれを断った。「こんなのってなかなかないわよ?」フルカワは髭を撫でながら、唸ると、「仮に着るとしてさ、」「着るのよ。」2秒間の沈黙。「仮に着るとして、君はどんな格好をするつもりだい?」「まだ迷ってるのよね。」と、のどかはペリエをグラスに注ぎ足して、通り過ぎていく、洗練されている、けれど、同じような顔つきをした人たちを眺めていた。「いくつかあって、一つ目はファッションパンク風キャバギャル経由病み系ゴスロリ。二つ目はアニメ好き自演系メガネっ子、あと、ほかも色々あるけど、まぁ、ざっくり言うとそんな感じ。ねぇ、いつも思うんだけど、なんで人って自分に似た人間を好きになるのかしら?」スニーカーのサイズを確認しているフルカワは、値札を外した。「人は一番身近にいる人間を好きになるから。」「鏡よ鏡よ鏡さん、って?」「君だって例外じゃない。」「そう?」すこし挑戦的な目つきで微笑んだ。「そうだね。特に、君みたいにはっきりした性格ならなおさら。」「あなたほどはっきりしてないわ。」「俺は欲しいものがはっきりしてるだけだ。性格の問題じゃない。君は違うね。」「欲しがってるものがはっきりしてない?」フルカワは秋葉原コスプレ一式を鞄に詰め込れて、髭を触りながら(それが物事を考えるときの癖だった)言った。「例えば、この通りを歩いて行く人、この店にいる連中。彼らは君に似ている。」挑戦的な目つきは、だんだんと、攻撃を予感させる警戒する目つきに代わり、グラスを持つ手の落ち着きがなくなり、それは緊張が始まったことを密かに示していた。「どう似ているっていうの?」「似ているっていうのは、公平な言い方じゃないな。本当は抱えている欲望は同じさ。人から賞賛されたい、優位に立ちたい、もっと沢山欲しい。君は自分が世俗の欲望から解き放たれて、そういう他人との競争を軽蔑しているフリをしている。たとえば、ある金持ちが慈善事業に打ち込んだとしても、施しを与えた相手が後に自分より裕福になることは許せない。もし、そうなったときは、その金持ちは表向きにはその相手と仲の良いフリをするだけで、内心では葛藤することになる。こいつはいったい何様のつもりなんだ、ってね。」「私は慈善事業をしたことなんてないけど。」「たとえ話だ。君は金を持っているのに金持ちを軽蔑している。そして、自分より金を持ってる金持ちはもっと軽蔑している。その軽蔑を解消するために小説を書いているのさ。注目を集めることで、金の差以外の価値観で優位に立とうとしてる。君もそこら中にいる連中と一緒だよ。ステータスを使って、他人より幸せそうに見えるようにしていないと幸せを実感できない人間だ。」そのときには、もうのどかの顔からは笑みは消えていた。「そういうものの言い方は好きじゃないわ。」「君が小説のなかで絶望として書こうとしているものは全部からっぽだ。君の書く文章は確かに優れている。文体も内容も洒脱で、隙がない。けれど、そこには痛みが無い。君は誰かの痛みを形の整った商品に仕上げることはできる。たいがいの人は、そういったことには気付かない。」「馬鹿いわないでよ。それで、散々儲けてるのはあなたの会社じゃない。音楽、出版、芸能、あなたのいうステータスを作り出して人を食い物にして金儲けしてる会社のオーナーじゃない。欺瞞よ。」「そう、欺瞞だ。君は物わかりがいい。ただ、自分が不利な立場に立つことを絶対に許せない、どこにでもいる女だ。本当は自分でも分かってるんだろ?」通りを歩く人たちはみんな洗礼された格好をしていて、誰もがその生活に不満がないように見えた。富める人間は富める人間同士で集まり、貧しい人間もまた同じだ。「本当は席を立ちたいんだろ。でもそうすると、自分が指摘を認めたように見えるからそうしない。」「あんたの言うことなんて全部デタラメよ。」「君の物語はパッケージ化された絶望だよ。テーマパークのアトラクションと同じだ。血が騒ぐアトラクションは絶対に事故を起こさない。」フルカワはのどかの息づかいが荒くなっていることに気付いた。人を傷付けたかったら、そいつの大事にしているものを思い切り蹴飛ばせばいい。「あなたって不愉快よ。」「誠実なだけだ。」大きく息を吸って吐いたのどかはバッグに手を突っ込んで、普段は絶対に吸わないマルボロを探したが、手をつっこんでから、それが相手のポイントに加算されることに気付いて、代わりに時間を確かめるフリのために携帯電話を取り出して時間を確認した。「私、予定があるの。」「ご自由に。」のどかは席を立ってはっきりとこう言った。「私より優位に立てて安心した?あなたがいくら他人を打ち負かそうとしても、自分より弱い人間に縋り付いてもらえないと生きていけない、弱い人。あなたは自分以外の人を餌食にしてるつもりだろうけど、その人達よりあなたのほうがずっと惨めよ。」フルカワは黙って立ち上がり、彼女の頬を手の甲で打った。ほかの席は一斉に静まり返って、普段テレビを見ることしない人たちは、息を飲み、即席のワイドショーに集中した。のどかは、赤くなった頬に触れながら、勝ち誇った表情をした。バッグを手に取って、店の通りの方に歩き始め、ふと思い出したように振り向いて、こう付け加えた。「明日はちゃんとあれ着て来てね。それで、今のはチャラよ。じゃあね。」彼女がいなくなったあと、フルカワはそれが自分の身体のように思えず、痛みの無い手を眺めながら、昔のように心の壁の外側が無感情になっている自分を発見した。
帰り道、のどかは、心が触れることは、傷に触れることに似ていると思った。もしかしたら、それらは同じことなのかもしれない。

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