そのあと、僕は話をやめて、適当にビールを飲んでごまかした。
そして、もうひとつ箇条書きにした。
僕がパンダの絵を描いたあと、ソフトなタッチの絵を描く女の子はいなくなって、代わりに病的に痩せた女の子が僕の隣に来て、「前に違うイベントで会いましたよね。」と僕に言った。僕も顔は知っているけれど、名前は分からないというのも中途半端な違和感があったから、彼女に「あー、顔は知ってる。」と応えた。僕の予想通り、彼女は青と同じクラスで共通の話題が青のことになって、それで、「何をしているひと?」と彼女。僕は「小説を書いている。」と言うと、彼女は「あーーーー!繋がった!!!」と驚いた。僕の知らない世界で、僕が登場人物になって、人間関係の相関や、すれ違いや、もめごとが起こるっていうのが少し面白かった。どんなことが起きたんだろう。
この文章を書いているうちに気付いたけれど、確か、僕が青に小説を渡したときには、既に青は、さっき登場した青の元彼氏と付き合っていた。当時、青がフリーペーパーを発行しようとして(それは企画倒れになったけど)、それに載せる原稿を渡すのに、青がPCを壊していて、彼女の彼氏の家のPCに原稿を一度保存することになっていた。小説の内容を思い出そうとしているけれど、うまくいかない。覚えているのは、こういう描写だ。動物園は競馬の場外馬券売り場の上にあって、馬券やその周辺の施設に流れる税金が吸い上げられて動物園は運営されていて、僕と友人がその動物園で見たものは、鹿とワラビーが檻を隔ててキスをしていた。話を戻す。僕にした質問を彼女にすると彼女は絵を描いていると言ったので、その絵を見せてもらった。バービーみたいな人形(全裸)が四つん這いになっていて頭が薔薇になっている絵で、その人形の周りにはミニーマウスがオモチャの車に乗っているものがいくつか見られる。絵を通して彼女は自己主張とか治療をしようとしているように思えた。インパクトはあるけれど、それは心に触れたり食いついたり突き刺したりする何かがなかった。特に反応らしい反応も批評もせずに、代わりに僕は自分が描いた絵を見せた。蛇を描いた絵。僕はそれが素晴らしい絵だということを確信していた。彼女に絵を見せて、これを縦1000メートル横1000メートルに拡大して展示したいと言ったが、彼女はそのアイディアにはそれほど興味を示さなかった。そういうことはよくあるし、さして失望もしなかったけれど。それから僕はブログにこの文章を書いた。その日にあったこととはあまり関係がない。その当時、漠然としていたい考えをはっきりさせたくて書いた。
*******************
十分に言葉を喋ることは難しい。
全てを喋るとそこで重要なことは関係の無いものに混ざって伝わらなくなる。限られた一部だけを伝えると、そこにあった細かい部分にある本質的なこと(その細かいことの一つ一つを組み合わせなければ重要なことは伝わらない。)。言葉で表現できそうにないものを言葉にしようとしている。リンゴを食べたことのないひとにリンゴの味を文章で伝えることは、とてもとても難しい。幸いリンゴは一般的なものだし、それを食べたことがないひとは少ない。重要なことは、全然関係のないふとした会話のなかに紛れ込む。自営業の子供は自営業、といった会話。あるミュージシャンは自分の事務所を持っていて、自営業で、その父親は大きな印刷屋で、彼はレコードコレクターだった。そして、息子はミュージシャンとして独立して、音楽業界のなかでは屈指のレコードコレクターで知られている。Aの子供はA。それは一種の法則で、僕たちがそれから逃げることは難しい。あなたは両親ではない何かになりたいと思う。たとえば、あなたには両親にない野心を持っているとする。仮に、あなたが両親に似ていない何かになろうとするときに、その呪縛から逃げ出すのは難しい。繰り返されるコピーの輪からあなたは逃げ出したいと心底から望んでいる。あなたの心が強くそれを求めるほど、心は分裂していく。あなたが愛するひとが愛する人にあなたはなりたいと思い、その反対側で、あなたはそれを否定しなければならない。ひとつの例。ある女の子は、父親からレイプされていた。そして、母親は、その父親の元から娘を連れ去っていくことができない。母親は社会のなかで母子家庭として彼女を育て上げる強さもないし、男に従属する生き方以外を知らない。男が女を殴る家庭で育ったからだ。連れ去って救うことすらせず、逆に母親はその娘を妬むようになる。その女の子はそういう家庭で育った。そして彼女は、男を嫌悪し、女を憎み、一人で生きていかなければいけない。そしていつものように繰り返される。女の子は女を売り、そして、自分を顧みないクズみたいな男と付き合うようになる。これは一つの例だ。この世界は一つじゃない。ある世界から別の世界に行くことはとてもとても難しい。見えない壁があるからだ。僕は誰かを理解したいと思う。別の世界に移ることができないなら、せめて、僕には別の世界の住人と分かり合いたいと思う。その自営業のミュージシャンに僕は「誰かみたいになりたいと思ったことはある?」と訊いた。「思う。」と言って、そしてこう付け加えた「でも年をとってそう思わなくなった。」「諦めがついた?」「そう。それが年をとるっていうことだよ。」と彼は言った。
OK
そこで冷徹な現実に折り合いを付けなかったとして。あなたは僕の味方ではない。僕は冷徹な現実のなかで何者かになりたいと思う。成長なんてものはない。変化するか、もしくは折り合いをつけるか。それだけだ。
*******************
ほかにも沢山ある。全部を伝えるきることはできない。あなたは沢山を受け取るだろうけれど、それはどこかに紛れてこぼれていく。記憶。
記憶を引き出す。さっきのミュージシャンとした『Aの子供はA』という呪縛の話以外にも。電話をしていた17才のときだ。高校生の僕の携帯電話にメールが入った。半年前に登録した出会い系のサイトからメールが来た。「なんとかさんからメッセージが来ました。」という内容のメール。僕はそのサイトに接続した。メッセージの内容は覚えていない。まずサクラだと疑った。もしサクラであれば登録した直後にメッセージが来るだろう。本当に忘れたときにわざわざメッセージを送ってきた。そしてその内容は、サクラが書くような嘘っぽいリアリティのない生々しさがあった。本物の女子中学生の文章と、偽物の女子中学生を見分けることが特別うまいわけじゃない。ただ、自然っていうのは不自然で、本物は気が抜けた感じがするものだ。僕はそのメッセージが届いた知らせのメールが届いたときに、横浜駅の大きな陸橋で自転車を漕いでいたのを覚えている。その夜、彼女とメールを何度かやりとりした。途中でサイト上でメッセージのやり取りをするポイントが足りなくなって、僕は一時間くらい迷って結局ポイントを買ってメッセージのやり取りをした。サイトのシステム上、メッセージ上にメールアドレスと思われる文字列や、電話番号と思われる文字列を送ろうとするときには、エラーメッセージになるようになっていた。そのシステムをどうやって乗り越えたのかは覚えていない。英語表現の部分をカタカナで送ったんだと思う。彼女は香川に住む中学二年生の女の子で、バスケットボール部で、胸はDカップ(妙に発育が良いと思った)、声はもちろん可愛かったし、それなりに恋愛経験もあるようだった。沢山の登録者のなかで僕にメッセージを送った理由は、プロフィールの欄にバンドをやっていていギターを弾けると書いて、それで、最近彼女の家に来た従兄弟が彼女の前でエレクトリックギターを弾いているのを見てかっこいいと感じて、そして半年前のプロフィールにある僕にメッセージが送られてきた。強烈な記憶だったのに、僕はこの事実を忘れていた。記憶は関連性で呼び起こされる。香川県の中学二年生の女の子のことを思い出したのは、僕は最近知り合った大阪に住んでいる18才の女子大学生に関連がある。
例えば、薔薇の香りを催淫の作用があるように、ある種の声のトーンもセックスをさせたくなるのかもしれない。声のトーンでその育ち方や性格や、ルックスまで量れるというのが僕の持論だった。夜中、親に女の子と喋っていることを知られたくないために、外出をして彼女との信号に変換される情報のやり取りをするために、近くの中学校のほうまで歩いているときに、僕は彼女のことを沢山知った。彼女の名前、家族、好きな食べ物とか、普段何をしているのか、休みの日に何をしているのかとか、学校での生活、彼女の部活のこと、今までの恋愛遍歴、彼女のルックスを最後まで知らなかったのは、その頃はまだ携帯電話にカメラが付いているのが普通じゃなかったからで、結局最後まで彼女がどんな姿形をしているのかを知ることはなかった。もしかしたら存在しなかったかもしれない。そういう可能性も否定できない。ずいぶん長い時間、彼女と話をしていた割にはたいしたことを知ることはなかったし、僕にも伝えたいようなことはなかった。高校一年の男が、中学2年の女の子と会話するのはそういう意味で簡単だった。僕の学校生活で、女の子と話す機会なんてほとんどなかったから(学校にいるときはいつも本を読んでいたし、それか学校をサボって自転車でみなとみらいのほうまで言って、波打ち際で何をするでもなく、ただぼんやりとしているかのどちらかだったから。)毎日、彼女と電話をしていると、ときどき彼女の声が高くなるときがあって、いっとき声が高くなると、しばらく向こうから何も喋らなくなって、僕が黙ると彼女は綿飴みたいな声で「何か喋ってて」と僕に頼む。そして僕は何かを喋らなくいけなくなって、適当にアルバイトのこととか、学校で何があったとか、他愛のない話をした。その頃の学校の保健の授業で男女の性欲を示すグラフを見て、そこには、常に一生の間、男性は女性の性欲の2倍の位置で推移していて、女性は20代前半で性欲の高まりを見せて、そのあと30才前後で最大のピークを示して推移していた。彼女が黙り込む理由を僕は薄々感づき始めた。学校生活で僕はひたすら本を読み、一部の友達以外とはほとんど会話らしい会話もしない僕が、隠し持っていた秘密は、今思えば随分斬新なものなんじゃないかと、この文章を書きながら気付いた。電話をしていると、彼女が黙り始める。そして僕は不安になって彼女の名前を呼ぶ。名前は確か、"彩"だったと思う。上の名前は忘れた。佐藤だったっけ?ともかく、僕が「彩?」と呼びかけると彼女は曖昧な返事をしてから、「話をして。」と言う。僕は話を続ける。実際、彩が黙り始めるのは、彼女がことを始めてからしばらく経ってからの終盤に差し掛かったときで、それまでは普段より若干高い声で喋って、ときどき、地方出身の人が訛りを隠すためにおかしなイントネーションになるような、まるで電話をしながら裁縫の針に糸を通しながら電話をするみたいに、ぐにゃりとした喋り方になった。その中断のようなものを挟みながら、10分ぐらい経つと、彼女はいつものように黙り始める。そして、しばらく彼女が無口でいるのが終わると、途端に、普通の声のトーンで彼女は僕とぽつぽつと会話を再会する。
香川県の女の子とは1ヶ月くらいやり取りをしていた。その関係が終わったのは確か僕の電話料金が度を超していたからだ。遠距離の恋愛は、貢ぎ物を求める女の子より金がかかる。僕の携帯電話の料金を支払っていた親に電話を止められた。それはしょうがないことだ。そのあと、僕は親に借りた10万円ちょっとの携帯電話料金の支払いをするために、家庭教師のテレフォンアポインターの仕事を始めるようになった。表向きの商材は家庭教師の売り込みだったが、実際は破格の教材を売りつける仕事で、家庭教師が勉強を教える相手は、高校受験を控える、中学生達だった。
香川県の女の子とは1ヶ月くらいやり取りをしていた。その関係が終わったのは確か僕の電話料金が度を超していたからだ。遠距離の恋愛は、貢ぎ物を求める女の子より金がかかる。僕の携帯電話の料金を支払っていた親に電話を止められた。それはしょうがないことだ。
日曜の夕方、雨の降る街を虹色の傘をさして歩いている。渋谷から表参道に向かって歩いている。イヤフォンからは MacDonald Duck Eclair の『La Flamme De L’amour』が流れている。ずっとずっと昔の出来事で、言葉では説明できない雰囲気が感情のことを文章でどうやって表現すればいいんだろう。写真にも映像にもならない。もしかしたら音楽がそれにいちばん接近することができるんじゃないかと気付いたけれど、それでさえ隣接であって、そのものではない。書いている小説のことを考えだせばキリがなかったけれど、墓まで持って行く経験にしては、それが貴重過ぎる気がした。その夜、青の部屋で僕は彼女と二人きりだった。僕と彼女が頻繁に携帯のメールのやりとりをしなくなったあと、セックスをしなくなったあと、その頃の話だったと思う。そして僕はここで青という名前を取り払って、架空の登場人物にその経験をさせることこそフィクションなんじゃないかと思ったけれど、そうした途端に違和感を感じずにいられない。青の部屋に僕と彼女は二人きりで、彼女のPCにファイル交換のソフトの設定をしていた時だったか、僕が書いた小説を印刷するために最後の推敲をしているときだったか、覚えてはいないけれど、二人でいるときの孤独感も無くて、和やかで、暖かい相手への気持ちだけがそこにはあった。たとえば、君にだってあるはずで、朝起きたら凄い気分が良くて、カーテンを開けると空には雲がひとつもなくて、どんなことだってできそうな日。そういう日みたいに、沢山の要因が綺麗に揃って、精緻な何百もの歯車が同時に駆動するような夜だった。彼女が人といるほとんどの時(僕といるときでさえ)、苛立ちをやり過ごすように煙草をひっきりなしに吸っていたことを考えると、その夜、青は一本も煙草を吸わなかっことが、端的に彼女の感情を表していた。白熱灯の蝋燭の火のように暖かい光。僕たちは言葉を何も喋らなかったけれど、ささやきのような沈黙のなかで、言葉ではない言葉で、羊水のような空気と、スローモーションのような時間の流れを感じていた。PCとベッドは雑誌(彼女は雑誌が好きだ)の詰まった本棚が隔てていて、推敲の途中でふと、静か過ぎて彼女が眠っているんじゃないかと思って、本棚から覗くように彼女のほうを見ると、彼女は一人でパジャマのズボンに片手を入れてぼんやりと天井を見るでもなく見ていた。そして僕と目が合うと焦るでもなく「見てんなよ!」と恥ずかしそうに笑いながら怒った。その時のことを雨(霧を懸命に集めてやっと水滴にしたような細かな雨)の音を背景にした『En Route』を聴きながら、たぶん千回目くらいに思い出した。蛇足だろうけれど、余談、そのあと僕たちはセックスはしなかった。メールが届いた。フルカワからだ。何時に着くのか?という内容で、できる限り急いで行く、と、表参道の坂を登りきったところにある交番の前で返信した。
いつものように途中で買ったビールを飲みながら僕はフルカワの家にいた。「ずいぶん久しぶりみたいな気がする。」とフルカワが言った。僕は肩をすくめてから、すこし笑って「恋人がいうセリフみたいだ。」と応えた。「平均株価が半額になった。」愚痴っぽく言ったので僕は平然と「買うなら最高のタイミングだし、市場の平均PERは過去30年でいちばん低い。」「これからさらに下落するかもしれない。」「それならさらに株を買い増せばいい。」僕がメールに添付したレポートを印刷したものを、フルカワは僕に向かって放り投げた。「言葉で言うのは簡単だ。」とフルカワは言った。「もし怒ってるなら、言い訳をさせてほしいんだけど、前に持ってたGEもApple Inc.も、同じように下がったんだ。どの会社を買っても結果は同じだよ。それに俺が持ってた株だって下がったんだ。規模の差はかなりあるけどね。総資産の目減りの割合で言ったら遥かにダメージは大きい。」「別に怒ってはいない。」と言いながら髭を撫でながら「最後のほうに書いているこれから調査する予定の会社は?」「小さくて凄く儲かっていてなおかつ成長の余地が十分にある会社のリスト。」と僕はハイネケンを飲みながら応えて、自分の成長余地について考えていた。「アメリカの上場企業をウェブサイトでスクリーニングをかけて、指標上、現在のROAが25%を超えている会社を選び出す。」「ROA?」「Return On Assets、総資産利益率。たしか、ムラハシさんの会社で8%くらいじゃなかったかな。健闘してると思うよ。」と言うと、むっとしたみたいでムラハシは眉間に皺を寄せた。僕は肩をすくめようかとも思ったけどやめた。「アメリカの上場企業は4000社以上ある。そのなかでROAが25%を超えている会社は20社に満たない。つまり、」僕は飲み終えた缶を置いてビニール袋からもう一本ビールを取り出した。「つまり、そこに並べた会社は信じられないくらい儲かっている会社ってこと。そのROAが25%を超えている上位0.5%の会社に条件を査定して濾過する。」上位の何%ってなんだかIQの高い人達の集団みたいだと思った。彼らはその集団のなかでさらにIQの上位の何%っていう条件を作ってさらに小さな内部の集団を作って、そのなかでさらに、といった具合にヒエラルキーを作り上げる。「その条件はひとつは売っている商品を理解できること。ハイテク関連は全部除く。それからその商品が海外進出ができること。凄いスピードで成長してすぐに頭打ちになるのを外す。それで残ったのがその4社。0.1%の類い稀なる企業。」「ふむ。」とフルカワは言ってソファから身体を起こした。「前から聞こうと思っていたことがある。」僕は二本目のバドワイザーを空にした。バドワイザーを売っている会社のことを思い出そうとした。そこそこ儲かっている(これは世の中のほとんどの企業よりかは儲かっていることを意味している)し安定していることけれど、それだけの会社だ。なんていう名前の会社だったか。「どこでそういう知識を身に付けた?」「本と自力の洞察の二つ。ピーター・リンチっていう投資家がいる。そいつが書いた本を読んだ。あとは、かの有名なウォーレン・バフェットが持っている会社を研究した。どちらも実績を残している本物の投資家。リンチについては特に言うことは無い。何度も何度も彼が書いた本を読んだ。自分が他人に理解させることができる、つまり、自分が理解するまで。それからバフェットについては最近買った会社を、調べて、それからそれらの会社を買った理由を頭から煙が出るまで考えた。コカ・コーラ、ジョンソンアンドジョンソン、リグレー、最後のは無名だけど、ガムを売ってる会社。そういう会社の共通点を時間をかけて考えた。」3つ目のビールをビニールから取り出した。「そして、共通した特徴から本質を理解した。」「さすが。フルカワさんくらい頭が冴えてるなら俺があれこれ口を出す必要は無いっていつも思うんだけどね。」「世辞はいい。それで?」「ひとつは消耗品を売っている会社だってこと。もうひとつは、知名度と販路を拡大させるだけで儲けることができる経営の簡単な会社。少なくとも、経営の仕方の間違えようがないんだから、経営の仕方を間違えて5年で廃業になるようなことはない。それから最後に、世界のどこに行っても飲料品もバンソーコもガムは売れる。」僕は頭を振って目をこすった。飲み過ぎた。
「飲み過ぎじゃないか?」とフルカワに言われて、僕はもう一度頭を振って、それからこういう話をした。「だいぶ前に好きだった女の子と会社の飲み会で一緒になったことがある。彼女は僕の前で男と隣合わせている。男のほうはハンサムで女に凄く慣れてるし、問題は俺が女の子に慣れてないことじゃなくて、好きな女の子の前だと全然上手く話すことができないってこと。だから俺は女の子が好きな男の子の前で内股になって目を合わせられなくなる気持ちを理解している。そのひとの前だと、声は一段低くなって、会話はぶつ切りになる。スムーズな理想の会話からほど遠い、外国語を学び始めて一週間後にネイティブと会話しようとするような感じになる。どうしようもない。問題はその女の子は間違いなく自分のことを好いているってことと、それに負けないくらい強く恋に落ちてるってこと。まぁ、向こうには恋人がいて、週末になると、彼氏と過ごしてるみたいなんだけどね。月曜の朝に、肌の調子が良い彼女を見るのは、僕の想像力の関係上、かなり、しんどい。で、彼女にアプローチを何度もしていた。カタコトの日本語でもって、彼女にコミュニケーションを取ろうとする。で、俺も当時女の子へのアプローチが積極的過ぎるとうまくいかないっていうのが分からなかったから、結果はひどいもんだった。ぎこちなく、がつがつする。そうすると彼女は体よくいなす。最後のほう、彼女は僕の誘いを断ることに一種の喜びを感じるようになってたくらいだった。誘って断られる度に傷ついたし、彼女にアプローチを始めてから2週間くらい経って、これで断られたらもうやめにしようと思って、「アドレス、教えて。」って言ったら案の定拒否された。「秘密だよ。」って。それで、彼女と距離を取るようになった。突然、昨日まで自分に好き好き言っていた男の子が突然、自分と目を合わせるのをやめるようになる。駆け引きをするつもりなんてなかった。」三本目のビールを飲みながら、酒に関する思いでへと話をどう繋げていくか考えていると、「君は極端な性格だな。」とフルカワが言った。「それは良いことかな?悪いことかな?」「一長一短だろうけど、相手の気持ちやペースとか性格に合わせることができないのは損だろうな。」「そう。それで、俺は実際に損をした。それから一ヶ月が経つ。会社の飲み会になり、話は最初に戻る。僕の目の前には彼女と男が二人で喋っている。会話が弾む二人を眺めていると、はっきりと自分が妬んでいることに気付いた。妬むこと。自分が望んでいるけれど、自分にはできないことを、誰かが上手くやるときに、感じる感情。ほんとに酷い気持ちになった。極めつけは、最後に男が彼女にアドレスを訊いて、即答で彼女はアドレスを教えた。自分が一ヶ月近く毎日彼女に話しかけてできなかったことを別の誰かが目の前で行っていた。ほんとにクソみたいな気分。マジで。その直後に僕は目の前にあるビール瓶をグラスに注いでは飲み干して、そして継ぎ足して、飲み干して、ビール瓶を開けて、グラスに注ぐ。その繰り返し。そういう時って、ほんとに酒の味がしなくなるものだし、水を飲むみたいな要領で、酒をひたすら飲んでいた。明らかにその飲み会の場で浮いていた自分を認識しつつも、どうしようできなくてひたすら一人で酒を延々と飲んでいると、陰気な俺を察した同僚が俺に「一緒に飲むぞ!」と言って隣に来る。そのあいだも目の前の二人は会話を楽しんでいる。僕は彼女に傷ついていることを気付いてほしかった。そういう気持ちってあるでしょ?面と向かって訴えたい切実なことを、本人に伝えられないとき、僕たちは身体を傷つけたり、馬鹿げたことをして注意を引こうとする。で、大抵、その行動で示す気持ちや考えは伝わらない。ときどきそういうのがほんとに嫌になる。そんなのは間違ってると思う。とにかく、それでもしょうがない。同僚に「飲むぞ!」と言われたときに、僕はビール瓶を握って応えて、それから周りに煽られて立ち上がると、瓶を口につけてそれを飲み始める。フルカワさんも知ってるように、俺は酒が滅法弱い。350ミリリットルのビール缶を半分飲む前に顔が赤くなって酔うことができる。でも実際に酒を既に1リットルくらい飲んでた。一気飲みのコールがかかる。飲めば飲むほど腹が「無理無理無理、もう無理!」って主張するんだけど、それを押さえつけてひたすら酒を飲む。半分くらい飲んだところで、瓶をテーブルに置く。もちろん、ここで周りが残ってることを指摘して、さらに煽る。残り1/4を切った当たりで、もう全身が酒を拒否していた。瓶を置く。嘔吐する、その一瞬前、僕は天井を仰いで、胃からせり上がる物を押しとどめようとする。飲み込もうとするけど、もう限界だった。周りの連中が空になったピッチャーを僕に渡した、その直後に僕はさっきまで食っていた、サラダ、サーモン、ピザ、焼そば、その他諸々を酒で割ったカクテルをピッチャーに吐き出す。よろめきながら僕はトイレに向かった。その途中、会社の好きなその女の子が「やだー。汚ーい。」と言っていたことを僕は忘れていない。」フルカワは笑った。僕は頭をふってそれから酒を飲んだ。この話には続きがあって、それはささやかな救いだ。トイレから戻って席に戻ると、場は白けきっていた。宴会はお開きになって、飲み屋を出たとき、僕は彼女に「アドレス教えてよ。」と、いつもの声より3オクターブくらい低い深刻な声で、ぎこちなく訊いた。『人生に敗北』するわけにはいかなかったからだ。信じられないことに彼女は僕にもアドレスを教えてくれた。何事も僕にとって物事はそうなった。
そして、もうひとつ箇条書きにした。
僕がパンダの絵を描いたあと、ソフトなタッチの絵を描く女の子はいなくなって、代わりに病的に痩せた女の子が僕の隣に来て、「前に違うイベントで会いましたよね。」と僕に言った。僕も顔は知っているけれど、名前は分からないというのも中途半端な違和感があったから、彼女に「あー、顔は知ってる。」と応えた。僕の予想通り、彼女は青と同じクラスで共通の話題が青のことになって、それで、「何をしているひと?」と彼女。僕は「小説を書いている。」と言うと、彼女は「あーーーー!繋がった!!!」と驚いた。僕の知らない世界で、僕が登場人物になって、人間関係の相関や、すれ違いや、もめごとが起こるっていうのが少し面白かった。どんなことが起きたんだろう。
この文章を書いているうちに気付いたけれど、確か、僕が青に小説を渡したときには、既に青は、さっき登場した青の元彼氏と付き合っていた。当時、青がフリーペーパーを発行しようとして(それは企画倒れになったけど)、それに載せる原稿を渡すのに、青がPCを壊していて、彼女の彼氏の家のPCに原稿を一度保存することになっていた。小説の内容を思い出そうとしているけれど、うまくいかない。覚えているのは、こういう描写だ。動物園は競馬の場外馬券売り場の上にあって、馬券やその周辺の施設に流れる税金が吸い上げられて動物園は運営されていて、僕と友人がその動物園で見たものは、鹿とワラビーが檻を隔ててキスをしていた。話を戻す。僕にした質問を彼女にすると彼女は絵を描いていると言ったので、その絵を見せてもらった。バービーみたいな人形(全裸)が四つん這いになっていて頭が薔薇になっている絵で、その人形の周りにはミニーマウスがオモチャの車に乗っているものがいくつか見られる。絵を通して彼女は自己主張とか治療をしようとしているように思えた。インパクトはあるけれど、それは心に触れたり食いついたり突き刺したりする何かがなかった。特に反応らしい反応も批評もせずに、代わりに僕は自分が描いた絵を見せた。蛇を描いた絵。僕はそれが素晴らしい絵だということを確信していた。彼女に絵を見せて、これを縦1000メートル横1000メートルに拡大して展示したいと言ったが、彼女はそのアイディアにはそれほど興味を示さなかった。そういうことはよくあるし、さして失望もしなかったけれど。それから僕はブログにこの文章を書いた。その日にあったこととはあまり関係がない。その当時、漠然としていたい考えをはっきりさせたくて書いた。
*******************
十分に言葉を喋ることは難しい。
全てを喋るとそこで重要なことは関係の無いものに混ざって伝わらなくなる。限られた一部だけを伝えると、そこにあった細かい部分にある本質的なこと(その細かいことの一つ一つを組み合わせなければ重要なことは伝わらない。)。言葉で表現できそうにないものを言葉にしようとしている。リンゴを食べたことのないひとにリンゴの味を文章で伝えることは、とてもとても難しい。幸いリンゴは一般的なものだし、それを食べたことがないひとは少ない。重要なことは、全然関係のないふとした会話のなかに紛れ込む。自営業の子供は自営業、といった会話。あるミュージシャンは自分の事務所を持っていて、自営業で、その父親は大きな印刷屋で、彼はレコードコレクターだった。そして、息子はミュージシャンとして独立して、音楽業界のなかでは屈指のレコードコレクターで知られている。Aの子供はA。それは一種の法則で、僕たちがそれから逃げることは難しい。あなたは両親ではない何かになりたいと思う。たとえば、あなたには両親にない野心を持っているとする。仮に、あなたが両親に似ていない何かになろうとするときに、その呪縛から逃げ出すのは難しい。繰り返されるコピーの輪からあなたは逃げ出したいと心底から望んでいる。あなたの心が強くそれを求めるほど、心は分裂していく。あなたが愛するひとが愛する人にあなたはなりたいと思い、その反対側で、あなたはそれを否定しなければならない。ひとつの例。ある女の子は、父親からレイプされていた。そして、母親は、その父親の元から娘を連れ去っていくことができない。母親は社会のなかで母子家庭として彼女を育て上げる強さもないし、男に従属する生き方以外を知らない。男が女を殴る家庭で育ったからだ。連れ去って救うことすらせず、逆に母親はその娘を妬むようになる。その女の子はそういう家庭で育った。そして彼女は、男を嫌悪し、女を憎み、一人で生きていかなければいけない。そしていつものように繰り返される。女の子は女を売り、そして、自分を顧みないクズみたいな男と付き合うようになる。これは一つの例だ。この世界は一つじゃない。ある世界から別の世界に行くことはとてもとても難しい。見えない壁があるからだ。僕は誰かを理解したいと思う。別の世界に移ることができないなら、せめて、僕には別の世界の住人と分かり合いたいと思う。その自営業のミュージシャンに僕は「誰かみたいになりたいと思ったことはある?」と訊いた。「思う。」と言って、そしてこう付け加えた「でも年をとってそう思わなくなった。」「諦めがついた?」「そう。それが年をとるっていうことだよ。」と彼は言った。
OK
そこで冷徹な現実に折り合いを付けなかったとして。あなたは僕の味方ではない。僕は冷徹な現実のなかで何者かになりたいと思う。成長なんてものはない。変化するか、もしくは折り合いをつけるか。それだけだ。
*******************
ほかにも沢山ある。全部を伝えるきることはできない。あなたは沢山を受け取るだろうけれど、それはどこかに紛れてこぼれていく。記憶。
記憶を引き出す。さっきのミュージシャンとした『Aの子供はA』という呪縛の話以外にも。電話をしていた17才のときだ。高校生の僕の携帯電話にメールが入った。半年前に登録した出会い系のサイトからメールが来た。「なんとかさんからメッセージが来ました。」という内容のメール。僕はそのサイトに接続した。メッセージの内容は覚えていない。まずサクラだと疑った。もしサクラであれば登録した直後にメッセージが来るだろう。本当に忘れたときにわざわざメッセージを送ってきた。そしてその内容は、サクラが書くような嘘っぽいリアリティのない生々しさがあった。本物の女子中学生の文章と、偽物の女子中学生を見分けることが特別うまいわけじゃない。ただ、自然っていうのは不自然で、本物は気が抜けた感じがするものだ。僕はそのメッセージが届いた知らせのメールが届いたときに、横浜駅の大きな陸橋で自転車を漕いでいたのを覚えている。その夜、彼女とメールを何度かやりとりした。途中でサイト上でメッセージのやり取りをするポイントが足りなくなって、僕は一時間くらい迷って結局ポイントを買ってメッセージのやり取りをした。サイトのシステム上、メッセージ上にメールアドレスと思われる文字列や、電話番号と思われる文字列を送ろうとするときには、エラーメッセージになるようになっていた。そのシステムをどうやって乗り越えたのかは覚えていない。英語表現の部分をカタカナで送ったんだと思う。彼女は香川に住む中学二年生の女の子で、バスケットボール部で、胸はDカップ(妙に発育が良いと思った)、声はもちろん可愛かったし、それなりに恋愛経験もあるようだった。沢山の登録者のなかで僕にメッセージを送った理由は、プロフィールの欄にバンドをやっていていギターを弾けると書いて、それで、最近彼女の家に来た従兄弟が彼女の前でエレクトリックギターを弾いているのを見てかっこいいと感じて、そして半年前のプロフィールにある僕にメッセージが送られてきた。強烈な記憶だったのに、僕はこの事実を忘れていた。記憶は関連性で呼び起こされる。香川県の中学二年生の女の子のことを思い出したのは、僕は最近知り合った大阪に住んでいる18才の女子大学生に関連がある。
例えば、薔薇の香りを催淫の作用があるように、ある種の声のトーンもセックスをさせたくなるのかもしれない。声のトーンでその育ち方や性格や、ルックスまで量れるというのが僕の持論だった。夜中、親に女の子と喋っていることを知られたくないために、外出をして彼女との信号に変換される情報のやり取りをするために、近くの中学校のほうまで歩いているときに、僕は彼女のことを沢山知った。彼女の名前、家族、好きな食べ物とか、普段何をしているのか、休みの日に何をしているのかとか、学校での生活、彼女の部活のこと、今までの恋愛遍歴、彼女のルックスを最後まで知らなかったのは、その頃はまだ携帯電話にカメラが付いているのが普通じゃなかったからで、結局最後まで彼女がどんな姿形をしているのかを知ることはなかった。もしかしたら存在しなかったかもしれない。そういう可能性も否定できない。ずいぶん長い時間、彼女と話をしていた割にはたいしたことを知ることはなかったし、僕にも伝えたいようなことはなかった。高校一年の男が、中学2年の女の子と会話するのはそういう意味で簡単だった。僕の学校生活で、女の子と話す機会なんてほとんどなかったから(学校にいるときはいつも本を読んでいたし、それか学校をサボって自転車でみなとみらいのほうまで言って、波打ち際で何をするでもなく、ただぼんやりとしているかのどちらかだったから。)毎日、彼女と電話をしていると、ときどき彼女の声が高くなるときがあって、いっとき声が高くなると、しばらく向こうから何も喋らなくなって、僕が黙ると彼女は綿飴みたいな声で「何か喋ってて」と僕に頼む。そして僕は何かを喋らなくいけなくなって、適当にアルバイトのこととか、学校で何があったとか、他愛のない話をした。その頃の学校の保健の授業で男女の性欲を示すグラフを見て、そこには、常に一生の間、男性は女性の性欲の2倍の位置で推移していて、女性は20代前半で性欲の高まりを見せて、そのあと30才前後で最大のピークを示して推移していた。彼女が黙り込む理由を僕は薄々感づき始めた。学校生活で僕はひたすら本を読み、一部の友達以外とはほとんど会話らしい会話もしない僕が、隠し持っていた秘密は、今思えば随分斬新なものなんじゃないかと、この文章を書きながら気付いた。電話をしていると、彼女が黙り始める。そして僕は不安になって彼女の名前を呼ぶ。名前は確か、"彩"だったと思う。上の名前は忘れた。佐藤だったっけ?ともかく、僕が「彩?」と呼びかけると彼女は曖昧な返事をしてから、「話をして。」と言う。僕は話を続ける。実際、彩が黙り始めるのは、彼女がことを始めてからしばらく経ってからの終盤に差し掛かったときで、それまでは普段より若干高い声で喋って、ときどき、地方出身の人が訛りを隠すためにおかしなイントネーションになるような、まるで電話をしながら裁縫の針に糸を通しながら電話をするみたいに、ぐにゃりとした喋り方になった。その中断のようなものを挟みながら、10分ぐらい経つと、彼女はいつものように黙り始める。そして、しばらく彼女が無口でいるのが終わると、途端に、普通の声のトーンで彼女は僕とぽつぽつと会話を再会する。
香川県の女の子とは1ヶ月くらいやり取りをしていた。その関係が終わったのは確か僕の電話料金が度を超していたからだ。遠距離の恋愛は、貢ぎ物を求める女の子より金がかかる。僕の携帯電話の料金を支払っていた親に電話を止められた。それはしょうがないことだ。そのあと、僕は親に借りた10万円ちょっとの携帯電話料金の支払いをするために、家庭教師のテレフォンアポインターの仕事を始めるようになった。表向きの商材は家庭教師の売り込みだったが、実際は破格の教材を売りつける仕事で、家庭教師が勉強を教える相手は、高校受験を控える、中学生達だった。
香川県の女の子とは1ヶ月くらいやり取りをしていた。その関係が終わったのは確か僕の電話料金が度を超していたからだ。遠距離の恋愛は、貢ぎ物を求める女の子より金がかかる。僕の携帯電話の料金を支払っていた親に電話を止められた。それはしょうがないことだ。
日曜の夕方、雨の降る街を虹色の傘をさして歩いている。渋谷から表参道に向かって歩いている。イヤフォンからは MacDonald Duck Eclair の『La Flamme De L’amour』が流れている。ずっとずっと昔の出来事で、言葉では説明できない雰囲気が感情のことを文章でどうやって表現すればいいんだろう。写真にも映像にもならない。もしかしたら音楽がそれにいちばん接近することができるんじゃないかと気付いたけれど、それでさえ隣接であって、そのものではない。書いている小説のことを考えだせばキリがなかったけれど、墓まで持って行く経験にしては、それが貴重過ぎる気がした。その夜、青の部屋で僕は彼女と二人きりだった。僕と彼女が頻繁に携帯のメールのやりとりをしなくなったあと、セックスをしなくなったあと、その頃の話だったと思う。そして僕はここで青という名前を取り払って、架空の登場人物にその経験をさせることこそフィクションなんじゃないかと思ったけれど、そうした途端に違和感を感じずにいられない。青の部屋に僕と彼女は二人きりで、彼女のPCにファイル交換のソフトの設定をしていた時だったか、僕が書いた小説を印刷するために最後の推敲をしているときだったか、覚えてはいないけれど、二人でいるときの孤独感も無くて、和やかで、暖かい相手への気持ちだけがそこにはあった。たとえば、君にだってあるはずで、朝起きたら凄い気分が良くて、カーテンを開けると空には雲がひとつもなくて、どんなことだってできそうな日。そういう日みたいに、沢山の要因が綺麗に揃って、精緻な何百もの歯車が同時に駆動するような夜だった。彼女が人といるほとんどの時(僕といるときでさえ)、苛立ちをやり過ごすように煙草をひっきりなしに吸っていたことを考えると、その夜、青は一本も煙草を吸わなかっことが、端的に彼女の感情を表していた。白熱灯の蝋燭の火のように暖かい光。僕たちは言葉を何も喋らなかったけれど、ささやきのような沈黙のなかで、言葉ではない言葉で、羊水のような空気と、スローモーションのような時間の流れを感じていた。PCとベッドは雑誌(彼女は雑誌が好きだ)の詰まった本棚が隔てていて、推敲の途中でふと、静か過ぎて彼女が眠っているんじゃないかと思って、本棚から覗くように彼女のほうを見ると、彼女は一人でパジャマのズボンに片手を入れてぼんやりと天井を見るでもなく見ていた。そして僕と目が合うと焦るでもなく「見てんなよ!」と恥ずかしそうに笑いながら怒った。その時のことを雨(霧を懸命に集めてやっと水滴にしたような細かな雨)の音を背景にした『En Route』を聴きながら、たぶん千回目くらいに思い出した。蛇足だろうけれど、余談、そのあと僕たちはセックスはしなかった。メールが届いた。フルカワからだ。何時に着くのか?という内容で、できる限り急いで行く、と、表参道の坂を登りきったところにある交番の前で返信した。
いつものように途中で買ったビールを飲みながら僕はフルカワの家にいた。「ずいぶん久しぶりみたいな気がする。」とフルカワが言った。僕は肩をすくめてから、すこし笑って「恋人がいうセリフみたいだ。」と応えた。「平均株価が半額になった。」愚痴っぽく言ったので僕は平然と「買うなら最高のタイミングだし、市場の平均PERは過去30年でいちばん低い。」「これからさらに下落するかもしれない。」「それならさらに株を買い増せばいい。」僕がメールに添付したレポートを印刷したものを、フルカワは僕に向かって放り投げた。「言葉で言うのは簡単だ。」とフルカワは言った。「もし怒ってるなら、言い訳をさせてほしいんだけど、前に持ってたGEもApple Inc.も、同じように下がったんだ。どの会社を買っても結果は同じだよ。それに俺が持ってた株だって下がったんだ。規模の差はかなりあるけどね。総資産の目減りの割合で言ったら遥かにダメージは大きい。」「別に怒ってはいない。」と言いながら髭を撫でながら「最後のほうに書いているこれから調査する予定の会社は?」「小さくて凄く儲かっていてなおかつ成長の余地が十分にある会社のリスト。」と僕はハイネケンを飲みながら応えて、自分の成長余地について考えていた。「アメリカの上場企業をウェブサイトでスクリーニングをかけて、指標上、現在のROAが25%を超えている会社を選び出す。」「ROA?」「Return On Assets、総資産利益率。たしか、ムラハシさんの会社で8%くらいじゃなかったかな。健闘してると思うよ。」と言うと、むっとしたみたいでムラハシは眉間に皺を寄せた。僕は肩をすくめようかとも思ったけどやめた。「アメリカの上場企業は4000社以上ある。そのなかでROAが25%を超えている会社は20社に満たない。つまり、」僕は飲み終えた缶を置いてビニール袋からもう一本ビールを取り出した。「つまり、そこに並べた会社は信じられないくらい儲かっている会社ってこと。そのROAが25%を超えている上位0.5%の会社に条件を査定して濾過する。」上位の何%ってなんだかIQの高い人達の集団みたいだと思った。彼らはその集団のなかでさらにIQの上位の何%っていう条件を作ってさらに小さな内部の集団を作って、そのなかでさらに、といった具合にヒエラルキーを作り上げる。「その条件はひとつは売っている商品を理解できること。ハイテク関連は全部除く。それからその商品が海外進出ができること。凄いスピードで成長してすぐに頭打ちになるのを外す。それで残ったのがその4社。0.1%の類い稀なる企業。」「ふむ。」とフルカワは言ってソファから身体を起こした。「前から聞こうと思っていたことがある。」僕は二本目のバドワイザーを空にした。バドワイザーを売っている会社のことを思い出そうとした。そこそこ儲かっている(これは世の中のほとんどの企業よりかは儲かっていることを意味している)し安定していることけれど、それだけの会社だ。なんていう名前の会社だったか。「どこでそういう知識を身に付けた?」「本と自力の洞察の二つ。ピーター・リンチっていう投資家がいる。そいつが書いた本を読んだ。あとは、かの有名なウォーレン・バフェットが持っている会社を研究した。どちらも実績を残している本物の投資家。リンチについては特に言うことは無い。何度も何度も彼が書いた本を読んだ。自分が他人に理解させることができる、つまり、自分が理解するまで。それからバフェットについては最近買った会社を、調べて、それからそれらの会社を買った理由を頭から煙が出るまで考えた。コカ・コーラ、ジョンソンアンドジョンソン、リグレー、最後のは無名だけど、ガムを売ってる会社。そういう会社の共通点を時間をかけて考えた。」3つ目のビールをビニールから取り出した。「そして、共通した特徴から本質を理解した。」「さすが。フルカワさんくらい頭が冴えてるなら俺があれこれ口を出す必要は無いっていつも思うんだけどね。」「世辞はいい。それで?」「ひとつは消耗品を売っている会社だってこと。もうひとつは、知名度と販路を拡大させるだけで儲けることができる経営の簡単な会社。少なくとも、経営の仕方の間違えようがないんだから、経営の仕方を間違えて5年で廃業になるようなことはない。それから最後に、世界のどこに行っても飲料品もバンソーコもガムは売れる。」僕は頭を振って目をこすった。飲み過ぎた。
「飲み過ぎじゃないか?」とフルカワに言われて、僕はもう一度頭を振って、それからこういう話をした。「だいぶ前に好きだった女の子と会社の飲み会で一緒になったことがある。彼女は僕の前で男と隣合わせている。男のほうはハンサムで女に凄く慣れてるし、問題は俺が女の子に慣れてないことじゃなくて、好きな女の子の前だと全然上手く話すことができないってこと。だから俺は女の子が好きな男の子の前で内股になって目を合わせられなくなる気持ちを理解している。そのひとの前だと、声は一段低くなって、会話はぶつ切りになる。スムーズな理想の会話からほど遠い、外国語を学び始めて一週間後にネイティブと会話しようとするような感じになる。どうしようもない。問題はその女の子は間違いなく自分のことを好いているってことと、それに負けないくらい強く恋に落ちてるってこと。まぁ、向こうには恋人がいて、週末になると、彼氏と過ごしてるみたいなんだけどね。月曜の朝に、肌の調子が良い彼女を見るのは、僕の想像力の関係上、かなり、しんどい。で、彼女にアプローチを何度もしていた。カタコトの日本語でもって、彼女にコミュニケーションを取ろうとする。で、俺も当時女の子へのアプローチが積極的過ぎるとうまくいかないっていうのが分からなかったから、結果はひどいもんだった。ぎこちなく、がつがつする。そうすると彼女は体よくいなす。最後のほう、彼女は僕の誘いを断ることに一種の喜びを感じるようになってたくらいだった。誘って断られる度に傷ついたし、彼女にアプローチを始めてから2週間くらい経って、これで断られたらもうやめにしようと思って、「アドレス、教えて。」って言ったら案の定拒否された。「秘密だよ。」って。それで、彼女と距離を取るようになった。突然、昨日まで自分に好き好き言っていた男の子が突然、自分と目を合わせるのをやめるようになる。駆け引きをするつもりなんてなかった。」三本目のビールを飲みながら、酒に関する思いでへと話をどう繋げていくか考えていると、「君は極端な性格だな。」とフルカワが言った。「それは良いことかな?悪いことかな?」「一長一短だろうけど、相手の気持ちやペースとか性格に合わせることができないのは損だろうな。」「そう。それで、俺は実際に損をした。それから一ヶ月が経つ。会社の飲み会になり、話は最初に戻る。僕の目の前には彼女と男が二人で喋っている。会話が弾む二人を眺めていると、はっきりと自分が妬んでいることに気付いた。妬むこと。自分が望んでいるけれど、自分にはできないことを、誰かが上手くやるときに、感じる感情。ほんとに酷い気持ちになった。極めつけは、最後に男が彼女にアドレスを訊いて、即答で彼女はアドレスを教えた。自分が一ヶ月近く毎日彼女に話しかけてできなかったことを別の誰かが目の前で行っていた。ほんとにクソみたいな気分。マジで。その直後に僕は目の前にあるビール瓶をグラスに注いでは飲み干して、そして継ぎ足して、飲み干して、ビール瓶を開けて、グラスに注ぐ。その繰り返し。そういう時って、ほんとに酒の味がしなくなるものだし、水を飲むみたいな要領で、酒をひたすら飲んでいた。明らかにその飲み会の場で浮いていた自分を認識しつつも、どうしようできなくてひたすら一人で酒を延々と飲んでいると、陰気な俺を察した同僚が俺に「一緒に飲むぞ!」と言って隣に来る。そのあいだも目の前の二人は会話を楽しんでいる。僕は彼女に傷ついていることを気付いてほしかった。そういう気持ちってあるでしょ?面と向かって訴えたい切実なことを、本人に伝えられないとき、僕たちは身体を傷つけたり、馬鹿げたことをして注意を引こうとする。で、大抵、その行動で示す気持ちや考えは伝わらない。ときどきそういうのがほんとに嫌になる。そんなのは間違ってると思う。とにかく、それでもしょうがない。同僚に「飲むぞ!」と言われたときに、僕はビール瓶を握って応えて、それから周りに煽られて立ち上がると、瓶を口につけてそれを飲み始める。フルカワさんも知ってるように、俺は酒が滅法弱い。350ミリリットルのビール缶を半分飲む前に顔が赤くなって酔うことができる。でも実際に酒を既に1リットルくらい飲んでた。一気飲みのコールがかかる。飲めば飲むほど腹が「無理無理無理、もう無理!」って主張するんだけど、それを押さえつけてひたすら酒を飲む。半分くらい飲んだところで、瓶をテーブルに置く。もちろん、ここで周りが残ってることを指摘して、さらに煽る。残り1/4を切った当たりで、もう全身が酒を拒否していた。瓶を置く。嘔吐する、その一瞬前、僕は天井を仰いで、胃からせり上がる物を押しとどめようとする。飲み込もうとするけど、もう限界だった。周りの連中が空になったピッチャーを僕に渡した、その直後に僕はさっきまで食っていた、サラダ、サーモン、ピザ、焼そば、その他諸々を酒で割ったカクテルをピッチャーに吐き出す。よろめきながら僕はトイレに向かった。その途中、会社の好きなその女の子が「やだー。汚ーい。」と言っていたことを僕は忘れていない。」フルカワは笑った。僕は頭をふってそれから酒を飲んだ。この話には続きがあって、それはささやかな救いだ。トイレから戻って席に戻ると、場は白けきっていた。宴会はお開きになって、飲み屋を出たとき、僕は彼女に「アドレス教えてよ。」と、いつもの声より3オクターブくらい低い深刻な声で、ぎこちなく訊いた。『人生に敗北』するわけにはいかなかったからだ。信じられないことに彼女は僕にもアドレスを教えてくれた。何事も僕にとって物事はそうなった。
コメント