「野暮だと思ったけど、俺は心配になって『財布持ってるのか?』と訊いた。
『はっきり言って、あなた失礼よ。』と彼女に言われて、たしかにそうだと思ったし、連れの女は嬉しそうに半ば笑いながら『あなた失礼よ。』と言った。いつもほとんど喋らない女の子で、彼女が笑うのもその日初めてみた。それからその小さな女の子がワサビ抜きで注文するのを眺めながら、あることを思い出していた。それから連れの女に自分の娘の話を始めた。」
「ちょっと待ってください。フルカワさんに娘がいるなんて知らなかったな。」「まぁ聞け。ずいぶん前の話になるし、その娘には随分長い間会ってなかったし、顔だってろくに覚えてなかった。でも、その小さな女の子を見ていると思い出さずにはいられなかった。連れの女に言った。『むかし一度だけ駆け落ちをしたことがある。』『駆け落ち?』『そう。駆け落ちをしたことはあるかい?』少し考えながら、元々垂れている目が酔ってさらに垂れていて、色っぽかった。『ない。』と少し考えて答えた彼女にこの話を始めた。」
のどかは部屋で一人原稿を書き終えたあと、B&Bのソファに身を沈めて昔の出来事を思い出していた。あのとき手に持っていたのはパスポートだけで、空港で彼は「まるでドラマみたいだな。」と手を握って言ったことや、冬のパリで彼はレコード屋を回っていて、私は私で二作目のアイディアを思い付いて現地で買ったノートに鉛筆で原稿を書いていたこと(自分の妹と浮気した旦那への腹いせに失踪して旅先で知り合った男との恋愛とか諸々がある話で、結局、これは帰って書き直された。)。真冬のパリは寒くて、外に出歩くことはほとんどなくてホテルの部屋で彼と原稿を書く以外の時間は、昔読んだ本を読み返すか、彼とセックスをするかのどちらかだった。本を読みながらセックスができるか試したこともあったが、これはうまくいかなかった。そういった生活に飽きた私と、どうしても日本に戻らなきゃいけなくなった彼は、半年ぶりに帰国して、家に帰るなり、呆然とした旦那が私の頬を手の甲で打って
言った私たちの娘の死を告げた。「めいりは死んだよ。風邪をこじらせて、あっという間だった。」それ以来自分を許すことができなくなっていたが、自分を責める時間もないまま、私は自分が妊娠したことに気付いたのは、その新しい娘の父親が結婚した直後だった。
「結局、何もかもが間違いだった。どこかで何かが食い違って、小さな違いが大きな違いになっていた。ほんの少しの角度で逸れていく二つの道が、長い距離で大きな違いになるみたいに。」「それでその子供はどうなったの?」「その母親が育ててる。会ったことはない。」とフルカワが言ったところで、隣の小さな女の子はお茶をこぼして悲鳴をあげていた。熱いお湯をこぼして、それが服にかかったんじゃないかと、フルカワは気にかけて店員に何枚も布巾を持ってこさせた。「ありがとうございます。」と言って上目遣いでユキが言ったところで、フルカワはぐっときて、その小さなレディーを放っておけない気持ちにさせたし、その場から離れられなくなる自分を感じた。ユキはその場でじっとフルカワを見つめたまま目を離さなかった。獲物を追いつめた蛇のように確実に、圧倒的に。「ねぇ、それ何ていうネタなの?」と白魚を指さしてユキは訊いたので、フルカワは答えた。「ねぇ、あれなんて読むの?」と読めない寿司のネタを指差して訊いた。彼女は教えを忠実に実践していた。場所の選択はなかなか独創的ではあったが。まずお互いに離すことのできる対象がある場所でなくてはいけないということで、今日、昼からわざわざ家を出たフルカワをずっとクールなスパイのように追跡していたのだ。問題は、この垂れ目の女をどうするか、だった。「君、いくつ?」と言ったフルカワは、これじゃあ先週接待で連れてかれたキャバクラみたいだ、と思った。「今月で8才。」「俺には君くらいの年の娘がいる。もう随分長いこと会ってない。だからってわけじゃないけど、何かおごらせてくれないか?」「ほんとに?」「ああ。」「じゃあ、牡蠣ってある?食べたことない。」メニューを眺めたが、そこには牡蠣はなかったが、素敵な女の子がいて、欲しいものがあれば、どうしたって手に入れて、それを与えるというのがフルカワの信条だった。フルカワは反対を向いて普段は無口な女の子に「近くにオイスターバーがあるんだ。牡蠣は食べれる?」と訊くと、その女の子はちょっとしたトラウマのせいで良くない予感がしたが、今となっては、そのトラウマは彼女の中の何かを根本的に変えて、物事にたいする新しい態度を作っていた。「いいけど、私終電の時間までに帰りたい。」「じゃあ帰ればいいさ。」とフルカワはあっさりと答えて、女の子は傷ついた。「来週の土曜、空けといてくれ。」「ねぇ、本当に私にチャンスをくれるの?」「心配しなくていい。手配はしてある。」普段は無口な女の子は、小さい女の子に一瞥をしてから二人に「おやすみ。」と言って店を出て、彼女は駅までの道のりの間に考え事をしていた。あの中年に身体を売り渡すことになる自分を想像したが、最初考えていたように、それで自分をもっと汚せるとは思えなくなっていた。いくぶん彼は優し過ぎるし、思っていたほど悪くない男だからだ。彼女は彼氏がかけている眼鏡によく似た、度の入っていない眼鏡をかけながら、地下鉄の構内へと降りて行った。
オイスターバーで様々な産地が書かれた牡蠣のメニューを眺めているユキは、このあとどうすべきかひたすら考えていた。唐突に「私あなたの娘よ!」と言うのを想像してみたけど、これだと少し面白みがないし、正直に言って、ユキは最初から怖くてたまらなかった。足ががくがく震えて、崖の上から100メートルしたの荒れ狂う波打ち際を恐る恐る見下ろすような、あの吐き気に似た気分だった。パタンとメニューを畳んで「広島産とカナダ産で。」言って彼の顔を見ると、目の前の髭面の男を見ると、じれったい気持ちになった。それから閉じたメニューをまた開いて顔を隠して、わがままが言いたい気持ちになって、それからメニューを閉じると、「私プリン食べたい。」メニューを開いたフルカワは「残念だけどプリンはないな。」と答えた。「今すぐプリンが食べたいの。いま、すぐ、よ。」とはっきりユキは言うと、フルカワは店員を呼んだ。「これとこれ、あと、この子にペリエと、あと、このワイン。」「かしこまりました。」「......、それと、この店にデザートはあるかな?」「申し訳ありませんが、デザートのほう取り扱ってなくてですね。」「分かった。それで、無理を承知で言うんだけど、これで近くのコンビニでプリンを買ってきてくれないか?この子が誕生日なんだ。」とフルカワは嘘を混ぜながら一万円札を渡して言って、こう付け加えた。「釣りは全部君が受け取ってくれ。」そこにユキは口を挟んだ。「ごめんなさい、このおじさんちょっと可笑しいの。プリンはいいの。」態度を決めかねる店員にユキは「あなたは、いいの。」と言って店員を下がらせた。「おじさん、全然分かってないのね。私は別にプリンを食べたいわけじゃないの。」フルカワは混乱した。「あなたが今すぐ必死になって店を出て今すぐそこのコンビニまで走って行ってプリンを買ってきてほしかったの。」フルカワが立ち上がると、ユキには彼が呆れて帰ってしまおうとしているように見えて、彼女は「わがままでしょ!ごめんなさい。」と取り乱して言うと、フルカワは優しく微笑んで「コンビニに行こうと思ったんだ。」と答えた。そこに店員がやってきて、氷の上に載った2種類で4つの牡蠣とペリエとワインを持ってきた置いた。「ともかく乾杯ね。」とユキはペリエをグラスに注ぎながら言いって「プリンはそのあとよ。」と不機嫌そうに言った。
「ねぇ、たとえば、凄い会いたいと思うひとがいるとしてね。」とユキは牡蠣に塩を振りながら言った。「たとえば、そのひとのことを好きで好きでしょうがないんだけど、でも、複雑な事情で自分から近づくことはできないわけ。」「ふむ。」とフルカワはレモンをしぼって牡蠣にかけた。「近づくことはできるんだけど、自分の正体を明かせないの。シンデレラみたいにね。」「そういえば、君、もう12時が近いけど、お父さんとお母さんは心配しないかな?」「お母さんは今日はおでかけ。新しい恋人と夜の代官山でデートだって。」フルカワは罪悪感を感じて、この子を家まで送らなければいけないと思った。少なくとも、それが道理だ。「お父さんは?」「私ってシンデレラみたいなものよ。」「継母がいじめるのかい?」「まさか。彼女は私で、私は彼女よ。」ユキはレモンを両手で絞りながら言った。フルカワは目眩がした。「さっきの話の続きね。正体を明かせないし、そのうえ、その好きなひとには触れることができないの。」「身分の違いとか?」「んー、まぁ、ある意味そうだけど、それはまた別の話。そのひとが追い求めているのは存在しない、そのひとの頭のなかで作り上げた幻想で、偶像なの。だから、そのひとに近づくために、その偶像だか幻想だかに見えるようにする必要があったわけ。」「偽装?」「いや、そのひとが偽装を本物だって思い込めば、それは存在することになる。客観的にどうであれ、主観が全ての世界だから。」フルカワは牡蠣を口に流し込みながら髭を触りながら、たいしたものだと思った。「君いくつだい?」「今月で8才。」「蠍座か。」「蠍座は執念深いのよ。おじさんは何座?」「2月生まれのうお座。」「うお座はロマンチスト。」「星占いを信じるのかい?」「プラシーボ効果よ。」「じゃあ偽薬、いや、偽装や、仮装の、それらの効力を信じるのかい?」「ロマンチストのあなたには効くかもしれない!!」とユキは嬉しそうに笑いながら言った。フルカワは、まるで自分自身と話をしているような錯覚を感じた。もしかしたら、錯覚じゃなくて、ある意味において真実かもしれない。牡蠣を持ったまま、それを凝視しているユキは、好奇心と恐怖心の間で悩んでいたが、いつものように前者が後者を圧倒して、口に含んで噛んだ。濃厚で新鮮な味と香り。きっとエッチはこんな感じなんじゃないかと、ユキは思った。「君、名前は?」少し考えて(ここで本当の名前を明かすべきだろうか。もしかしたら、魔法が解けてしまうかもしれない。)、用意していた偽名を伝えた。「ウタコ。」「どういう字を書くの?」と言いながら、フルカワは8才児に名前の漢字の書き方を訊くのに躊躇わなかった自分に気付いた。すでに彼女のある種の知性(学校で学ぶような、ボディービルディングのような知性とは違った、変則的で柔らかい知性。)を信頼している。「詩人の詩に、子供の子。で詩子。」「素敵な名前だ。」と、心底から思って伝えたフルカワは、「プリンを買いに行くよ。」と言って立ち上ろうとすると、詩子は「置いて行かないで!」とテーブルを乗り出して髭を引っ掴んで叫んだ。「ひとりにしないで。」顔が間近に近づいてフルカワは、その馴染み深くて、心に深く繋がったあの恋人の、懸命で頑なな美しい目と同じだと錯覚を起こして一瞬キスをしそうになった。髭を掴んだ小さな手をほどいて気持ちを落ち着けると、フルカワは「よし、一緒に行こう。」と、伸びる高いけれどしゃがれた声で答えた。
「さっきのひとは?」「ただの友達だよ。」「そうなんだ。」と独り言みたいに呟いて、昼間に、その友達の腰に手を回していたのを彼女は思い出した。男はみんな嘘つきだし、女はもっと嘘つきだっていうのが、ユキの持論だった。「ねぇ、おじさんの名前は?」「フルカワ。」「ロマンチストのフルカワさん。」「コンビニでいいかな?探せばどこかのファミレスでも行けば、ちゃんと料理したデザートが食べれるよ。」「それはいつも食べてるからいい。」「ひとりで食べてるの?」「別に。」と言ってからファミリーマートの自動ドアをくぐった。難しい言葉を唱えるみたいに、到達するのが困難な場所に辿り着くために、好きなひとのために沢山犠牲にしてきたせいで、彼女に与えられるものは今はもう150円のコンビニのプリンだけになったことに、フルカワはレジの中国人に会計をさせているあいだに気付いた。「これは陳腐な表現だろうけど、君には前にどこかで会った気がする。」ユキはフルカワを見上げて何か言おうとして、言葉が出なくなった。言葉の代わりに涙が出そうだった。この場で泣いて全てを白状してみせようか。「前読んだ本に書いてあったんだけどね、物事って何が起こるかって、予め決まってる、っていうのがその本に書いてあることで、宇宙が膨張を続けて、それが限界に達すると、逆に収縮しはじめて、映像の逆再生みたいに、私たちは人生を何度も再生と逆再生を繰り返すの。だから、こうやって前に会ったことがあるような気持ちになるのは、何度も繰り返されて擦り切れかけてフィルムのような一つのシーンなの。」「若い友人が勧めた映画にあったな。『すべては繰り返しだ。』って。」「だから、何度も私達は出会うの。」「ふむ。」と髭を撫でてフルカワは考えた。その撫でている髭に白髪が混ざっていて、詩子は訊いた。「おじさんいくつ?」「36。」苦労してるんだと思って、自分のプリンをすくって食べさせた。「1969年。『サマーオブラブ』ね。ねぇ、真夏に生まれたら何か人生が変わっていたと思う。繰り返される人生が。」「さっきの理論が本当だとして、それは大きな繰り返しで、そして人生のなかで僕たちは同じようなことを繰り返している。株価の変動みたいに、大きな波形のなかに小さな波形があって、何もかもが繰り返しだよ。だから、夏に生まれようが冬に生まれようが、その変わらない人生を忌むっていう点では同じだろうな。君はまだ分からなくていいことさ。」「私、人生を知りたいの。」「苦いかもしれないのに?」「食べてみなきゃわからない。牡蠣、美味しかったよ。」「それはまだ腐ってないからさ。1969年、世界は変わらなかった。」プリンを食べきって、レジ袋に入れて、フルカワは「もう12時前だ。」「いつも思うんだけど、絶対シンデレラがガラスの靴を落としていったのは、わざとよね。」「玉の輿に乗ろうとしてる俗っぽい女だって軽蔑する?」「まさか。私、お金に困ったこともないし、欲しいものを我慢したことなんて一度もない、そういう私が言うと死ぬほど高慢に聞こえるだろうけど、彼女は高貴な人間よ。彼女は、元々お金持ちの何ひとつ不自由ない人間だったことを忘れなかったし、彼女にとって何でも自分の思うがままになることがなるのが正常な状態で、偶然、酷い境遇に落ち込んでそれが異常な状態だって思ってた。慣れようとしなかったし、継母も異母兄弟も、自分より下の位の人間だって、こき使われているときだって内心思ってたはずよ。だから彼女は気高いの。だって、もし、何かに我慢したり慣れするのって、死んでるのと同じでしょ。私はそう思う。」「とにかく駅へ行こう。魔法が解ける前に。」二人で歩きながら、フルカワはシンデレラのその後について考えていた。ありがちな後日談の予測は、そのあとシンデレラは王子様と結ばれたあと継母を拷問にかけたあと死刑にするし、やがてシンデレラも年を取った時、その本性を表す。「例えば、ひとの内側には見えない壁がある。誰かの父親は自営業で、その息子は読書家で父親を嫌っていて、密かな将来の夢は科学者だった。その男はやがて大人になり、大嫌いな親元を離れて、そこで夢を試そうとする。でも、諸々の事情で、その夢は叶わず、気付いたら何故か自営業をしていた。見えない壁は、’呪い’と言い換えてもいいかもしれない。選べる職業なら他にもいくらでもあったのに。」詩子は頷いた。「これはあくまで仮定なんだけど、母親に愛されたいと幼年期に感じる。もう本能と言ってもいいくらいに強烈に刻み込まれるのは、その母親が愛する父親の像で、それは端的に言ってエディプスコンプレックスってこと。それで、最終的に自由意志を押さえ込んで、その呪いによってシンデレラは王女になり、俺は会社を経営している。」「エディプスコンプレックスって何?」「男が父親を憎んで、母親に愛されたいって無意識に思う傾向のことだよ。フロイトっていう心理病の学者の理論。」「女の子の場合はなんて言うの?」「エレクトラコンプレックス。」「ちょっと響きがかっこいいね。えれくとらこんぷれっくす。」「じゃあ、親のいない子供は、自由意志のままに生きれるのかな。」「良い質問だ。その場合は生きること自体が困難になるんだよ。そういう連中はいままで何人か見てきた。彼らは生き方が分からない。何かを選ぶことや、何かに向かって生きることが難しくなる。意思そのものを保つのが難しい。もしかしたら自由意志なんて無いのかもしれない。」「『愛こそすべて』ね。」「ジョン・レノンには二人の母親がいた。片方は自由奔放で、母親に全く向かず、育児を放棄していた。もうひとりの母親は、血こそ繋がってなかったが、愛情を注ぎ、いつもジョンのそばにいた。」ユキの胸は苦しくなって息が止まりそうになって、大きな交差点の前でうずくまった。「ちょっとお腹が痛くなったの。」フルカワは取り乱して、携帯電話で119をプッシュしたところで、彼女は立ち上がって、深呼吸をしてから「手を繋いで。」と言った。
『はっきり言って、あなた失礼よ。』と彼女に言われて、たしかにそうだと思ったし、連れの女は嬉しそうに半ば笑いながら『あなた失礼よ。』と言った。いつもほとんど喋らない女の子で、彼女が笑うのもその日初めてみた。それからその小さな女の子がワサビ抜きで注文するのを眺めながら、あることを思い出していた。それから連れの女に自分の娘の話を始めた。」
「ちょっと待ってください。フルカワさんに娘がいるなんて知らなかったな。」「まぁ聞け。ずいぶん前の話になるし、その娘には随分長い間会ってなかったし、顔だってろくに覚えてなかった。でも、その小さな女の子を見ていると思い出さずにはいられなかった。連れの女に言った。『むかし一度だけ駆け落ちをしたことがある。』『駆け落ち?』『そう。駆け落ちをしたことはあるかい?』少し考えながら、元々垂れている目が酔ってさらに垂れていて、色っぽかった。『ない。』と少し考えて答えた彼女にこの話を始めた。」
のどかは部屋で一人原稿を書き終えたあと、B&Bのソファに身を沈めて昔の出来事を思い出していた。あのとき手に持っていたのはパスポートだけで、空港で彼は「まるでドラマみたいだな。」と手を握って言ったことや、冬のパリで彼はレコード屋を回っていて、私は私で二作目のアイディアを思い付いて現地で買ったノートに鉛筆で原稿を書いていたこと(自分の妹と浮気した旦那への腹いせに失踪して旅先で知り合った男との恋愛とか諸々がある話で、結局、これは帰って書き直された。)。真冬のパリは寒くて、外に出歩くことはほとんどなくてホテルの部屋で彼と原稿を書く以外の時間は、昔読んだ本を読み返すか、彼とセックスをするかのどちらかだった。本を読みながらセックスができるか試したこともあったが、これはうまくいかなかった。そういった生活に飽きた私と、どうしても日本に戻らなきゃいけなくなった彼は、半年ぶりに帰国して、家に帰るなり、呆然とした旦那が私の頬を手の甲で打って
言った私たちの娘の死を告げた。「めいりは死んだよ。風邪をこじらせて、あっという間だった。」それ以来自分を許すことができなくなっていたが、自分を責める時間もないまま、私は自分が妊娠したことに気付いたのは、その新しい娘の父親が結婚した直後だった。
「結局、何もかもが間違いだった。どこかで何かが食い違って、小さな違いが大きな違いになっていた。ほんの少しの角度で逸れていく二つの道が、長い距離で大きな違いになるみたいに。」「それでその子供はどうなったの?」「その母親が育ててる。会ったことはない。」とフルカワが言ったところで、隣の小さな女の子はお茶をこぼして悲鳴をあげていた。熱いお湯をこぼして、それが服にかかったんじゃないかと、フルカワは気にかけて店員に何枚も布巾を持ってこさせた。「ありがとうございます。」と言って上目遣いでユキが言ったところで、フルカワはぐっときて、その小さなレディーを放っておけない気持ちにさせたし、その場から離れられなくなる自分を感じた。ユキはその場でじっとフルカワを見つめたまま目を離さなかった。獲物を追いつめた蛇のように確実に、圧倒的に。「ねぇ、それ何ていうネタなの?」と白魚を指さしてユキは訊いたので、フルカワは答えた。「ねぇ、あれなんて読むの?」と読めない寿司のネタを指差して訊いた。彼女は教えを忠実に実践していた。場所の選択はなかなか独創的ではあったが。まずお互いに離すことのできる対象がある場所でなくてはいけないということで、今日、昼からわざわざ家を出たフルカワをずっとクールなスパイのように追跡していたのだ。問題は、この垂れ目の女をどうするか、だった。「君、いくつ?」と言ったフルカワは、これじゃあ先週接待で連れてかれたキャバクラみたいだ、と思った。「今月で8才。」「俺には君くらいの年の娘がいる。もう随分長いこと会ってない。だからってわけじゃないけど、何かおごらせてくれないか?」「ほんとに?」「ああ。」「じゃあ、牡蠣ってある?食べたことない。」メニューを眺めたが、そこには牡蠣はなかったが、素敵な女の子がいて、欲しいものがあれば、どうしたって手に入れて、それを与えるというのがフルカワの信条だった。フルカワは反対を向いて普段は無口な女の子に「近くにオイスターバーがあるんだ。牡蠣は食べれる?」と訊くと、その女の子はちょっとしたトラウマのせいで良くない予感がしたが、今となっては、そのトラウマは彼女の中の何かを根本的に変えて、物事にたいする新しい態度を作っていた。「いいけど、私終電の時間までに帰りたい。」「じゃあ帰ればいいさ。」とフルカワはあっさりと答えて、女の子は傷ついた。「来週の土曜、空けといてくれ。」「ねぇ、本当に私にチャンスをくれるの?」「心配しなくていい。手配はしてある。」普段は無口な女の子は、小さい女の子に一瞥をしてから二人に「おやすみ。」と言って店を出て、彼女は駅までの道のりの間に考え事をしていた。あの中年に身体を売り渡すことになる自分を想像したが、最初考えていたように、それで自分をもっと汚せるとは思えなくなっていた。いくぶん彼は優し過ぎるし、思っていたほど悪くない男だからだ。彼女は彼氏がかけている眼鏡によく似た、度の入っていない眼鏡をかけながら、地下鉄の構内へと降りて行った。
オイスターバーで様々な産地が書かれた牡蠣のメニューを眺めているユキは、このあとどうすべきかひたすら考えていた。唐突に「私あなたの娘よ!」と言うのを想像してみたけど、これだと少し面白みがないし、正直に言って、ユキは最初から怖くてたまらなかった。足ががくがく震えて、崖の上から100メートルしたの荒れ狂う波打ち際を恐る恐る見下ろすような、あの吐き気に似た気分だった。パタンとメニューを畳んで「広島産とカナダ産で。」言って彼の顔を見ると、目の前の髭面の男を見ると、じれったい気持ちになった。それから閉じたメニューをまた開いて顔を隠して、わがままが言いたい気持ちになって、それからメニューを閉じると、「私プリン食べたい。」メニューを開いたフルカワは「残念だけどプリンはないな。」と答えた。「今すぐプリンが食べたいの。いま、すぐ、よ。」とはっきりユキは言うと、フルカワは店員を呼んだ。「これとこれ、あと、この子にペリエと、あと、このワイン。」「かしこまりました。」「......、それと、この店にデザートはあるかな?」「申し訳ありませんが、デザートのほう取り扱ってなくてですね。」「分かった。それで、無理を承知で言うんだけど、これで近くのコンビニでプリンを買ってきてくれないか?この子が誕生日なんだ。」とフルカワは嘘を混ぜながら一万円札を渡して言って、こう付け加えた。「釣りは全部君が受け取ってくれ。」そこにユキは口を挟んだ。「ごめんなさい、このおじさんちょっと可笑しいの。プリンはいいの。」態度を決めかねる店員にユキは「あなたは、いいの。」と言って店員を下がらせた。「おじさん、全然分かってないのね。私は別にプリンを食べたいわけじゃないの。」フルカワは混乱した。「あなたが今すぐ必死になって店を出て今すぐそこのコンビニまで走って行ってプリンを買ってきてほしかったの。」フルカワが立ち上がると、ユキには彼が呆れて帰ってしまおうとしているように見えて、彼女は「わがままでしょ!ごめんなさい。」と取り乱して言うと、フルカワは優しく微笑んで「コンビニに行こうと思ったんだ。」と答えた。そこに店員がやってきて、氷の上に載った2種類で4つの牡蠣とペリエとワインを持ってきた置いた。「ともかく乾杯ね。」とユキはペリエをグラスに注ぎながら言いって「プリンはそのあとよ。」と不機嫌そうに言った。
「ねぇ、たとえば、凄い会いたいと思うひとがいるとしてね。」とユキは牡蠣に塩を振りながら言った。「たとえば、そのひとのことを好きで好きでしょうがないんだけど、でも、複雑な事情で自分から近づくことはできないわけ。」「ふむ。」とフルカワはレモンをしぼって牡蠣にかけた。「近づくことはできるんだけど、自分の正体を明かせないの。シンデレラみたいにね。」「そういえば、君、もう12時が近いけど、お父さんとお母さんは心配しないかな?」「お母さんは今日はおでかけ。新しい恋人と夜の代官山でデートだって。」フルカワは罪悪感を感じて、この子を家まで送らなければいけないと思った。少なくとも、それが道理だ。「お父さんは?」「私ってシンデレラみたいなものよ。」「継母がいじめるのかい?」「まさか。彼女は私で、私は彼女よ。」ユキはレモンを両手で絞りながら言った。フルカワは目眩がした。「さっきの話の続きね。正体を明かせないし、そのうえ、その好きなひとには触れることができないの。」「身分の違いとか?」「んー、まぁ、ある意味そうだけど、それはまた別の話。そのひとが追い求めているのは存在しない、そのひとの頭のなかで作り上げた幻想で、偶像なの。だから、そのひとに近づくために、その偶像だか幻想だかに見えるようにする必要があったわけ。」「偽装?」「いや、そのひとが偽装を本物だって思い込めば、それは存在することになる。客観的にどうであれ、主観が全ての世界だから。」フルカワは牡蠣を口に流し込みながら髭を触りながら、たいしたものだと思った。「君いくつだい?」「今月で8才。」「蠍座か。」「蠍座は執念深いのよ。おじさんは何座?」「2月生まれのうお座。」「うお座はロマンチスト。」「星占いを信じるのかい?」「プラシーボ効果よ。」「じゃあ偽薬、いや、偽装や、仮装の、それらの効力を信じるのかい?」「ロマンチストのあなたには効くかもしれない!!」とユキは嬉しそうに笑いながら言った。フルカワは、まるで自分自身と話をしているような錯覚を感じた。もしかしたら、錯覚じゃなくて、ある意味において真実かもしれない。牡蠣を持ったまま、それを凝視しているユキは、好奇心と恐怖心の間で悩んでいたが、いつものように前者が後者を圧倒して、口に含んで噛んだ。濃厚で新鮮な味と香り。きっとエッチはこんな感じなんじゃないかと、ユキは思った。「君、名前は?」少し考えて(ここで本当の名前を明かすべきだろうか。もしかしたら、魔法が解けてしまうかもしれない。)、用意していた偽名を伝えた。「ウタコ。」「どういう字を書くの?」と言いながら、フルカワは8才児に名前の漢字の書き方を訊くのに躊躇わなかった自分に気付いた。すでに彼女のある種の知性(学校で学ぶような、ボディービルディングのような知性とは違った、変則的で柔らかい知性。)を信頼している。「詩人の詩に、子供の子。で詩子。」「素敵な名前だ。」と、心底から思って伝えたフルカワは、「プリンを買いに行くよ。」と言って立ち上ろうとすると、詩子は「置いて行かないで!」とテーブルを乗り出して髭を引っ掴んで叫んだ。「ひとりにしないで。」顔が間近に近づいてフルカワは、その馴染み深くて、心に深く繋がったあの恋人の、懸命で頑なな美しい目と同じだと錯覚を起こして一瞬キスをしそうになった。髭を掴んだ小さな手をほどいて気持ちを落ち着けると、フルカワは「よし、一緒に行こう。」と、伸びる高いけれどしゃがれた声で答えた。
「さっきのひとは?」「ただの友達だよ。」「そうなんだ。」と独り言みたいに呟いて、昼間に、その友達の腰に手を回していたのを彼女は思い出した。男はみんな嘘つきだし、女はもっと嘘つきだっていうのが、ユキの持論だった。「ねぇ、おじさんの名前は?」「フルカワ。」「ロマンチストのフルカワさん。」「コンビニでいいかな?探せばどこかのファミレスでも行けば、ちゃんと料理したデザートが食べれるよ。」「それはいつも食べてるからいい。」「ひとりで食べてるの?」「別に。」と言ってからファミリーマートの自動ドアをくぐった。難しい言葉を唱えるみたいに、到達するのが困難な場所に辿り着くために、好きなひとのために沢山犠牲にしてきたせいで、彼女に与えられるものは今はもう150円のコンビニのプリンだけになったことに、フルカワはレジの中国人に会計をさせているあいだに気付いた。「これは陳腐な表現だろうけど、君には前にどこかで会った気がする。」ユキはフルカワを見上げて何か言おうとして、言葉が出なくなった。言葉の代わりに涙が出そうだった。この場で泣いて全てを白状してみせようか。「前読んだ本に書いてあったんだけどね、物事って何が起こるかって、予め決まってる、っていうのがその本に書いてあることで、宇宙が膨張を続けて、それが限界に達すると、逆に収縮しはじめて、映像の逆再生みたいに、私たちは人生を何度も再生と逆再生を繰り返すの。だから、こうやって前に会ったことがあるような気持ちになるのは、何度も繰り返されて擦り切れかけてフィルムのような一つのシーンなの。」「若い友人が勧めた映画にあったな。『すべては繰り返しだ。』って。」「だから、何度も私達は出会うの。」「ふむ。」と髭を撫でてフルカワは考えた。その撫でている髭に白髪が混ざっていて、詩子は訊いた。「おじさんいくつ?」「36。」苦労してるんだと思って、自分のプリンをすくって食べさせた。「1969年。『サマーオブラブ』ね。ねぇ、真夏に生まれたら何か人生が変わっていたと思う。繰り返される人生が。」「さっきの理論が本当だとして、それは大きな繰り返しで、そして人生のなかで僕たちは同じようなことを繰り返している。株価の変動みたいに、大きな波形のなかに小さな波形があって、何もかもが繰り返しだよ。だから、夏に生まれようが冬に生まれようが、その変わらない人生を忌むっていう点では同じだろうな。君はまだ分からなくていいことさ。」「私、人生を知りたいの。」「苦いかもしれないのに?」「食べてみなきゃわからない。牡蠣、美味しかったよ。」「それはまだ腐ってないからさ。1969年、世界は変わらなかった。」プリンを食べきって、レジ袋に入れて、フルカワは「もう12時前だ。」「いつも思うんだけど、絶対シンデレラがガラスの靴を落としていったのは、わざとよね。」「玉の輿に乗ろうとしてる俗っぽい女だって軽蔑する?」「まさか。私、お金に困ったこともないし、欲しいものを我慢したことなんて一度もない、そういう私が言うと死ぬほど高慢に聞こえるだろうけど、彼女は高貴な人間よ。彼女は、元々お金持ちの何ひとつ不自由ない人間だったことを忘れなかったし、彼女にとって何でも自分の思うがままになることがなるのが正常な状態で、偶然、酷い境遇に落ち込んでそれが異常な状態だって思ってた。慣れようとしなかったし、継母も異母兄弟も、自分より下の位の人間だって、こき使われているときだって内心思ってたはずよ。だから彼女は気高いの。だって、もし、何かに我慢したり慣れするのって、死んでるのと同じでしょ。私はそう思う。」「とにかく駅へ行こう。魔法が解ける前に。」二人で歩きながら、フルカワはシンデレラのその後について考えていた。ありがちな後日談の予測は、そのあとシンデレラは王子様と結ばれたあと継母を拷問にかけたあと死刑にするし、やがてシンデレラも年を取った時、その本性を表す。「例えば、ひとの内側には見えない壁がある。誰かの父親は自営業で、その息子は読書家で父親を嫌っていて、密かな将来の夢は科学者だった。その男はやがて大人になり、大嫌いな親元を離れて、そこで夢を試そうとする。でも、諸々の事情で、その夢は叶わず、気付いたら何故か自営業をしていた。見えない壁は、’呪い’と言い換えてもいいかもしれない。選べる職業なら他にもいくらでもあったのに。」詩子は頷いた。「これはあくまで仮定なんだけど、母親に愛されたいと幼年期に感じる。もう本能と言ってもいいくらいに強烈に刻み込まれるのは、その母親が愛する父親の像で、それは端的に言ってエディプスコンプレックスってこと。それで、最終的に自由意志を押さえ込んで、その呪いによってシンデレラは王女になり、俺は会社を経営している。」「エディプスコンプレックスって何?」「男が父親を憎んで、母親に愛されたいって無意識に思う傾向のことだよ。フロイトっていう心理病の学者の理論。」「女の子の場合はなんて言うの?」「エレクトラコンプレックス。」「ちょっと響きがかっこいいね。えれくとらこんぷれっくす。」「じゃあ、親のいない子供は、自由意志のままに生きれるのかな。」「良い質問だ。その場合は生きること自体が困難になるんだよ。そういう連中はいままで何人か見てきた。彼らは生き方が分からない。何かを選ぶことや、何かに向かって生きることが難しくなる。意思そのものを保つのが難しい。もしかしたら自由意志なんて無いのかもしれない。」「『愛こそすべて』ね。」「ジョン・レノンには二人の母親がいた。片方は自由奔放で、母親に全く向かず、育児を放棄していた。もうひとりの母親は、血こそ繋がってなかったが、愛情を注ぎ、いつもジョンのそばにいた。」ユキの胸は苦しくなって息が止まりそうになって、大きな交差点の前でうずくまった。「ちょっとお腹が痛くなったの。」フルカワは取り乱して、携帯電話で119をプッシュしたところで、彼女は立ち上がって、深呼吸をしてから「手を繋いで。」と言った。
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