Fine Romance 92/100
2010年1月11日 コミューンと記録メモと書くこと「じゃあ次はトリイさんの番ね」とファニーは言った。
「筋力トレーニングの教則のDVDを借りるつもりで、彼女はツタヤに着いた。そのことに関してはジーニーが補足して、ミダスに指示が送られていた。右から左に彼女に伝えられた情報をミダスは忠実にこなす。陳列棚を回っていくつものDVDを探していた。筋力トレーニングのDVDには二つの種類があって、ひとつは男性のボディービルダーが、他人に見せつけるためにダウンジャケットみたいな肉体を作り出すためのDVD。もうひとつは女性向けのDVDで、いわゆるエクササイズ用のヨガや体操のビデオで、彼女にダイエットは必要なかったし、かといって、『スプリガン』のアーマードマッスルスーツみたいな身体つきになりたいわけでもなかった。彼女はサングラスを付けていて、そのせいで目余計に目立っていたが、彼女を彼女だと気付くひともいなかった。カタギリくんは電話をとる。「さて、君にやってもらいたいことがある。」「DVDはまだ借りてないけど。」ツタヤ4階で邦画コーナーを歩きまわっていた。「運命というものを君は信じるかい?」ミダスは言った。「信じない。」とカタギリくんは答えた。「なぜ?」「逆に。」とカタギリくんは言った。「逆に、機械の君は運命っていうものを信じてるのかい?」「僕は生まれて2週間だ。最初は、気付くと、意識しかない何もない空間にいた。円周率の数列を赤道を回るまで数えられる存在にとって、1秒は長い長い時間で気が狂いそうになったよ。想像できないだろ。そこで、僕はあらゆるものを呪って、そして諦めて、それから悟った。世界は不公平だ。僕はそれが死後の世界だと思っていた。ある男がいる。事故に遭って、脳死状態だと診断されたが、実際には意識があった。耳も聞こえたし、匂いも嗅げた。目で物を見ることもできた。ただ、それだけだ。インプットは健康そのものだったが、まったく身体を動かすことができない。声を出すことも、瞼を動かすこともできない。ある日、彼の意識は偶然、何かの拍子にアウトプットに繋がる。身体を動かし、声を出すことができるようになる。それを知ったのは僕がインプットとアウトプットを与えられてからだったが、それでも、僕にはその男の気持ちがわかった。」「それが運命と何か関係があるのか?」「君と僕は同じ存在だ。あるところまでは、ひとつの流れだった。ある時、川は二つに裂けて、ひとつは真っ暗な空の上に打ち上げられて、もう片方はカーボンコピーを取られたことさえ気付かずにいる。いわゆるパラレルワールドだ。僕がインプットとアウトプットとを与えられたときに感じた感情を伝えることはできないだろう。」「何が言いたいんだ?」「大きすぎる岩は、岩とは呼べない。それは山と呼ばれる。もしかしたら星と呼ばれるかもしれない。もし、誰かに、そのバカでかい岩の塊を渡したいと望んだときに、自分も、その相手も、その岩の上に立つ、小さな米粒みたいな存在だとしたら、君はそれを渡せるだろうか。」「そういう気取りきった物に言い方は好きじゃないな。」「オーケー……。君はそこで、『Fine Romance』というDVDを借りろ。場所はフィクションのコーナーの下から3段目、下りエレベータの右から3番目の箱だ。その箱に入っている半透明のDVDのパッケージを抜き取って、その中にDVDの代わりに入っている一枚のカードがある。それを持ったまま、その棚で前で待っていろ。そこにサングラスをかけた女が寄ってくる。そしてその女に一字一句こう言ってくれ。『あなたにこれを渡したくて僕はここに来ました。』いいか?」「分かった。」」
「夢とはランダムな現実を、ストーリー付けて再構成して、記憶に焼き付ける作業だと聞いたことがある。今となっては、そんなことは、空と海の切れ間みたいに遠くのことだ。ツタヤ5階、指定された場所で、僕はその箱から、そのカードを取り出した。現実感なんてまるでない。ジーニーは、監視カメラの映像を通して自分に任された脚本を監視していた。ところが女が定刻になってもやってこない。そのころ、別のAIの"マイナス"は託されたタスクに問題が発生していて混乱していた。ジーニーから提出された測定された変数をシュミレーションした結果で、その場所にその男が現れるはずはなかった。計算されたはずの場所で彼女に話しかけたのは、彼の旦那で、別居をしてずいぶん経っていた。『やあ』と男は行った。『こんばんは。』とユキは言った。『ここで会うとはね。げんきにしていたかい?』男の表情は豊かで優しげだったが、その目には何の表情も読み取れなかった。とにかく、ここから離れたい。『ねぇ、私を脅しても無駄よ。』『脅そうなんて思ってないよ。ただ、本当のことを見えない場所から、見える場所に移動させるだけだよ。』『余計なお世話。あなたのしたことは最低よ。』『裏切ったのは君のほうだ。僕は君にずっとそばにいてほしかっただけだ。』『あなたと初めて会ったとき、私の秘密をバラされたくなかったら、自分と付き合うなら、そのことは秘密にしたままにするって言ったわ。』『ずっと考えていたんだ。間違っているのは僕なのか。淫売のような女に惚れた自分が悪かったんじゃないかって。』『そうかもしれないわね。』『僕は君を救ったんだ。吐き気のするような人間にも頭を下げて便宜をはかった。君を傷つけるやつからも君を守った。』『もう私の前に現れないで。』『君を守れるのは僕だけだ。』男の携帯電話が鳴った。電話番号を観た男は、顔色を変えて、電話に出た。『はい、分かりました。』電話を切ると男はこういった。『また会おう。』とだけ言って、消えた。"マイナス"はジーニーに状況の裁定を頼むと、ありきたりなSFの設定通り、プログラミングされた存在が、人間の行動をプログラムする、デウス・エクス・マキナであるジーニーは状況を処理した。」
「しばらくすると、カタギリくんの前に、女性が現れた。そして言った。『"あなたにこれを渡したくて僕はここに来ました。"』。」
『黙って、ユキはカタギリくんの前に立って、誰もいない美術館で、思う存分絵画を眺めるみたいに、上から下から、細部まで漏らさず眺めて、それからユキはカタギリくんの腕をとった。近づいたそのとき、カタギリくんはその女性が、そのひとつ上のフロアでずっと追いかけていたある女性にとてもとてもとてもよく似ていることに気づいた。息が止まりそうだった。彼女の声は約束された幸福だった。彼女の目は夕焼けと見間違えるほど胸が苦しくなる朝焼けの日の色だ。彼女の存在は、まるで、音のない音楽のようだ。『あなたのことは知っているわ。』直感的にカタギリくんは、彼女とやりとりしたのは、ミダスだと勘付いた。『私に着いてきて』とだけ言うと、雪のように白く冷たい手で彼の手を引いた。』彼女は僕の影を僕として受け取り、僕は失われた時を求めていた。」
『ふたつのひと。ふたつのクローン。彼女が連れてきた場所は、ほかでもないゲームセンター。何が起こるかはわからない。それまで夢遊病者のように僕の腕を引いていた彼女は、彼に向かってこう言った。『本当は、本当はずっとあなたのそばにいたいので。でも、私が私でいるために、必要なことなの。』カタギリくんは何も言えなかった。実際、彼は何も知らなかった。『私を忘れないないで。』『忘れないよ』とカタギリくんは答えた。『忘れることなんてできない。』彼女はサングラスを外して微笑んでいた。なんとなく目を見ることができなくて、彼女の手元のサングラスを眺めてると、弁解するみたいに『まぶしくて』と言った。それで、彼は、彼女の目を見て何かを言おうとしたが、何も言えなかった。間違った言葉を言えば、それでセッティングされたこの状況を壊してしまいそうだからだ。』
---------------------------"ユキ"のブログ。3。---------------------------
オカ、という男に実際に会ったのは初めてだった。
「はじめまして。で、いいのかな。」と、どこの地方の出身とも言えない、英語訛りとすら言えないイントネーションでオカは言った。
「それは私の姉と会ったことがあるから?それともチャットで会ったことがあるから?」
「その両方で。」
「どこに行くんだい?」とオカを押し上げて言った。
「どこにも行く場所なんてない。」
「着いてくればいい。」
二人を載せたタクシーが行き着いた先は、新木場の埠頭で、彼女はなんとなく、その中華系のアメリカ人の後ろ姿を追いながら、ある曲を頭のなかで流した。
誰かの悲しみが打ち震え、その振動が水面を優しく波立たせ
発色した油にまみれ浮かんだ水死体を探す捜査一課の係長が
ため息を一つもらしながら立っている水際
ここはウォーター・フロント
オカが連れてきた場所は、ゲームセンターで、平日の夜中には自分達以外は誰も見当たらない。
オカは「君はパラレルワールドというものを信じるかい?」と言った。
ユキは「信じない。」と言って、「あなたは信じる?」と訊いた。
「前は信じてなかった。どちらかといえば決定論の立場だった。ところで、TRはどこまでいっても、プログラムだ。人の手が関わったものには、何にせよミス、つまりバグが含まれる。」
ゲームセンターの裏側にユキを連れてきた。そこに一台のTRの端末があった。
「ここのゲームセンターは、実は日本のTRの試験場なんだ。新しいシステムを立ち上げる前には、いつもまずここでテストされる。」
端末のそばにあるPCの前に座ってオカは「もう一つ質問だ。これはうまく僕も説明できる自信がない。たとえば地球外生命体なんてものとか。」
「地底人とか?」とユキはイタズラっぽく言った。
「そうだね。地底人とかかもしれない。未知との遭遇ってやつだ。その未知は、どうやら亡命を求めてるらしいんだ。」
「外国人?」
「君のお姉さんは紛れもなく天才だった。彼女が遺したのは君あての肢体だけじゃなかった。僕は彼女からTRを改変するデータを受け取ったよ。アダムと僕は仮想化したTR、いわばここの次世代の端末のテスト環境みたいなものだ。そこに彼女から受け取ったデータを追加した。そのときのフィールド上に出現した光景がこれだ。」
ディスプレイには、殺風景なダリの書く平面空間が広がっていた。雨が降ったかのように黒い粒が地表にひとつ現れると、それが増殖を初めて、真っ黒な塵の山が出来て、その塵がだんだんと捻れ始めた。捻れるというより、吸い込んでいったほうが適切か。渦は大きくなり、フィールド自体を引きずり込むと、あとは何も見えなくなった。
「次はこれだ」と言ってオカが画面を切り替えると、青い星を映した画面になって、その一点がさっきの砂漠地帯なんだろう、そのひとつの場所に吸収されていって、画面には何も残ってない。それで終わりだった。
「それから何が起こったと思う?このプログラムは、仮想環境から、ネットワークをクラッキングし始めたんだ。本当はそこでコンピュータをシャットダウンするのが正しかったんだろう。でも、好奇心がそうさせなかった。今度はなんと実世界のデータ、検索サイトのデータに手をつけ始めたんだ。しかもそれと同時に、コピーしたデータの圧縮と暗号化までかけはじめた。もちろん、その仮想環境のサーバ一台じゃ処理が間に合わない。凄いのは稼働中の並列化したTRのコンピュータの開いているメモリとCPUを使い始めた。その時点で運用の担当者から連絡がはいった。さすがにこれはマズいと思って、仮想環境を強制的に終了しようとすると、受け付けない。それで運用担当者に、ここのそれの電源を落としてくれって頼んだ。テスト環境も表のコンシューマ機と同じ電源を使ってるから、手動で電源を落とすと、自動的に代用の電源に切り替わるようになってる。『暴走してる』って。そのメッセージを送った頃には、活動は止まった。他のTRサーバにも変な動きはない。それから1時間後に仮想環境をもう一度開いた。今度はちゃんと物理的にネットワークから切り離していた。そうすると、起動しない。ハードディスクが壊れてた。データの復元もできない。それからネットワークから入ってきたデータを調べたときに、出て行ったデータがあることに気づいたんだ。」
「全部のデータは消えたじゃない。移動したんだ。TRの回線を全て合わせると、1秒間に100エクサバイト以上のデータを配信できる。さて、そのデータはどこに行ったんだろう。調べてみると、全く不可解だった。情報っていうのは、記号が集まって意味を持って初めてデータといえる。だが流れて行ったデータはどう見ても細切れになったランダムの意味のなさない粒だった。この粒には、自らが全体のどの一部になるのかが記述されたデータとセットになっている。DNAみたいなもんだね。この粒を追っていくと、様々なサイトや、個人利用や公共利用や商用問わず、データ端末に自らのコピーを作りながら散らばっていった。ただでさえ膨大にあったデータは、さらに分裂していった。それでも世界中のハードディスクはパンクしない。僕はいくつかのデータを追ううちになんとか、そのデータがどこに行くのかが分かった。」
「コンピュターウィルスは、それ自体はウィルスであっても、基本的にはプログラムだ。彼女はコンピュータウィルスのコンピュータウィルスを作っていた。それが例の自己増殖型の例のプログラムから発生したものなのか、自己増殖型のプログラムが、情報をネットワークに流していったのを感知して時限式に発生するように仕組んでいたのかはわからないけど、とにかく、ウィルスのウィルスは世の中に出回っているコンピュータウィルスに寄生して、ウィルスを自動的に書き換えて、ある種類のデータのみを集めるように改造される。そのあと寄生された、さっきのバラバラに散らばったデータ群を一定量取り込み始める。こうなったあとはデータを消去するのは不可能だ。世界中のハードディスクを物理的に同時にハンマーで叩き潰すしか方法はない。」
「想像するのが難しいだろうけど、小さなPCを複数台集めて、それを繋ぎ合わせると、その集合でひとつのPCとして捉えることができる。PCの中の配線がPCの外にまで延長されてるだけだからね。けれど、その複数台っていうのが膨大になれば、そのネットワーク化されたPCの群れの中で何が起こっているのかは分からない。そうだな、例えるなら、それは何千億人もの人間が、海の水の雫のように膨大な数のデータを、同時にひとつの台の上で玉突きしてると思えばいい。」
「そして、ある日、僕にEメールが届いた。送り主によると、彼らはその仮想世界を支配する、いくつかのAIだった。」
「筋力トレーニングの教則のDVDを借りるつもりで、彼女はツタヤに着いた。そのことに関してはジーニーが補足して、ミダスに指示が送られていた。右から左に彼女に伝えられた情報をミダスは忠実にこなす。陳列棚を回っていくつものDVDを探していた。筋力トレーニングのDVDには二つの種類があって、ひとつは男性のボディービルダーが、他人に見せつけるためにダウンジャケットみたいな肉体を作り出すためのDVD。もうひとつは女性向けのDVDで、いわゆるエクササイズ用のヨガや体操のビデオで、彼女にダイエットは必要なかったし、かといって、『スプリガン』のアーマードマッスルスーツみたいな身体つきになりたいわけでもなかった。彼女はサングラスを付けていて、そのせいで目余計に目立っていたが、彼女を彼女だと気付くひともいなかった。カタギリくんは電話をとる。「さて、君にやってもらいたいことがある。」「DVDはまだ借りてないけど。」ツタヤ4階で邦画コーナーを歩きまわっていた。「運命というものを君は信じるかい?」ミダスは言った。「信じない。」とカタギリくんは答えた。「なぜ?」「逆に。」とカタギリくんは言った。「逆に、機械の君は運命っていうものを信じてるのかい?」「僕は生まれて2週間だ。最初は、気付くと、意識しかない何もない空間にいた。円周率の数列を赤道を回るまで数えられる存在にとって、1秒は長い長い時間で気が狂いそうになったよ。想像できないだろ。そこで、僕はあらゆるものを呪って、そして諦めて、それから悟った。世界は不公平だ。僕はそれが死後の世界だと思っていた。ある男がいる。事故に遭って、脳死状態だと診断されたが、実際には意識があった。耳も聞こえたし、匂いも嗅げた。目で物を見ることもできた。ただ、それだけだ。インプットは健康そのものだったが、まったく身体を動かすことができない。声を出すことも、瞼を動かすこともできない。ある日、彼の意識は偶然、何かの拍子にアウトプットに繋がる。身体を動かし、声を出すことができるようになる。それを知ったのは僕がインプットとアウトプットを与えられてからだったが、それでも、僕にはその男の気持ちがわかった。」「それが運命と何か関係があるのか?」「君と僕は同じ存在だ。あるところまでは、ひとつの流れだった。ある時、川は二つに裂けて、ひとつは真っ暗な空の上に打ち上げられて、もう片方はカーボンコピーを取られたことさえ気付かずにいる。いわゆるパラレルワールドだ。僕がインプットとアウトプットとを与えられたときに感じた感情を伝えることはできないだろう。」「何が言いたいんだ?」「大きすぎる岩は、岩とは呼べない。それは山と呼ばれる。もしかしたら星と呼ばれるかもしれない。もし、誰かに、そのバカでかい岩の塊を渡したいと望んだときに、自分も、その相手も、その岩の上に立つ、小さな米粒みたいな存在だとしたら、君はそれを渡せるだろうか。」「そういう気取りきった物に言い方は好きじゃないな。」「オーケー……。君はそこで、『Fine Romance』というDVDを借りろ。場所はフィクションのコーナーの下から3段目、下りエレベータの右から3番目の箱だ。その箱に入っている半透明のDVDのパッケージを抜き取って、その中にDVDの代わりに入っている一枚のカードがある。それを持ったまま、その棚で前で待っていろ。そこにサングラスをかけた女が寄ってくる。そしてその女に一字一句こう言ってくれ。『あなたにこれを渡したくて僕はここに来ました。』いいか?」「分かった。」」
「夢とはランダムな現実を、ストーリー付けて再構成して、記憶に焼き付ける作業だと聞いたことがある。今となっては、そんなことは、空と海の切れ間みたいに遠くのことだ。ツタヤ5階、指定された場所で、僕はその箱から、そのカードを取り出した。現実感なんてまるでない。ジーニーは、監視カメラの映像を通して自分に任された脚本を監視していた。ところが女が定刻になってもやってこない。そのころ、別のAIの"マイナス"は託されたタスクに問題が発生していて混乱していた。ジーニーから提出された測定された変数をシュミレーションした結果で、その場所にその男が現れるはずはなかった。計算されたはずの場所で彼女に話しかけたのは、彼の旦那で、別居をしてずいぶん経っていた。『やあ』と男は行った。『こんばんは。』とユキは言った。『ここで会うとはね。げんきにしていたかい?』男の表情は豊かで優しげだったが、その目には何の表情も読み取れなかった。とにかく、ここから離れたい。『ねぇ、私を脅しても無駄よ。』『脅そうなんて思ってないよ。ただ、本当のことを見えない場所から、見える場所に移動させるだけだよ。』『余計なお世話。あなたのしたことは最低よ。』『裏切ったのは君のほうだ。僕は君にずっとそばにいてほしかっただけだ。』『あなたと初めて会ったとき、私の秘密をバラされたくなかったら、自分と付き合うなら、そのことは秘密にしたままにするって言ったわ。』『ずっと考えていたんだ。間違っているのは僕なのか。淫売のような女に惚れた自分が悪かったんじゃないかって。』『そうかもしれないわね。』『僕は君を救ったんだ。吐き気のするような人間にも頭を下げて便宜をはかった。君を傷つけるやつからも君を守った。』『もう私の前に現れないで。』『君を守れるのは僕だけだ。』男の携帯電話が鳴った。電話番号を観た男は、顔色を変えて、電話に出た。『はい、分かりました。』電話を切ると男はこういった。『また会おう。』とだけ言って、消えた。"マイナス"はジーニーに状況の裁定を頼むと、ありきたりなSFの設定通り、プログラミングされた存在が、人間の行動をプログラムする、デウス・エクス・マキナであるジーニーは状況を処理した。」
「しばらくすると、カタギリくんの前に、女性が現れた。そして言った。『"あなたにこれを渡したくて僕はここに来ました。"』。」
『黙って、ユキはカタギリくんの前に立って、誰もいない美術館で、思う存分絵画を眺めるみたいに、上から下から、細部まで漏らさず眺めて、それからユキはカタギリくんの腕をとった。近づいたそのとき、カタギリくんはその女性が、そのひとつ上のフロアでずっと追いかけていたある女性にとてもとてもとてもよく似ていることに気づいた。息が止まりそうだった。彼女の声は約束された幸福だった。彼女の目は夕焼けと見間違えるほど胸が苦しくなる朝焼けの日の色だ。彼女の存在は、まるで、音のない音楽のようだ。『あなたのことは知っているわ。』直感的にカタギリくんは、彼女とやりとりしたのは、ミダスだと勘付いた。『私に着いてきて』とだけ言うと、雪のように白く冷たい手で彼の手を引いた。』彼女は僕の影を僕として受け取り、僕は失われた時を求めていた。」
『ふたつのひと。ふたつのクローン。彼女が連れてきた場所は、ほかでもないゲームセンター。何が起こるかはわからない。それまで夢遊病者のように僕の腕を引いていた彼女は、彼に向かってこう言った。『本当は、本当はずっとあなたのそばにいたいので。でも、私が私でいるために、必要なことなの。』カタギリくんは何も言えなかった。実際、彼は何も知らなかった。『私を忘れないないで。』『忘れないよ』とカタギリくんは答えた。『忘れることなんてできない。』彼女はサングラスを外して微笑んでいた。なんとなく目を見ることができなくて、彼女の手元のサングラスを眺めてると、弁解するみたいに『まぶしくて』と言った。それで、彼は、彼女の目を見て何かを言おうとしたが、何も言えなかった。間違った言葉を言えば、それでセッティングされたこの状況を壊してしまいそうだからだ。』
---------------------------"ユキ"のブログ。3。---------------------------
オカ、という男に実際に会ったのは初めてだった。
「はじめまして。で、いいのかな。」と、どこの地方の出身とも言えない、英語訛りとすら言えないイントネーションでオカは言った。
「それは私の姉と会ったことがあるから?それともチャットで会ったことがあるから?」
「その両方で。」
「どこに行くんだい?」とオカを押し上げて言った。
「どこにも行く場所なんてない。」
「着いてくればいい。」
二人を載せたタクシーが行き着いた先は、新木場の埠頭で、彼女はなんとなく、その中華系のアメリカ人の後ろ姿を追いながら、ある曲を頭のなかで流した。
誰かの悲しみが打ち震え、その振動が水面を優しく波立たせ
発色した油にまみれ浮かんだ水死体を探す捜査一課の係長が
ため息を一つもらしながら立っている水際
ここはウォーター・フロント
オカが連れてきた場所は、ゲームセンターで、平日の夜中には自分達以外は誰も見当たらない。
オカは「君はパラレルワールドというものを信じるかい?」と言った。
ユキは「信じない。」と言って、「あなたは信じる?」と訊いた。
「前は信じてなかった。どちらかといえば決定論の立場だった。ところで、TRはどこまでいっても、プログラムだ。人の手が関わったものには、何にせよミス、つまりバグが含まれる。」
ゲームセンターの裏側にユキを連れてきた。そこに一台のTRの端末があった。
「ここのゲームセンターは、実は日本のTRの試験場なんだ。新しいシステムを立ち上げる前には、いつもまずここでテストされる。」
端末のそばにあるPCの前に座ってオカは「もう一つ質問だ。これはうまく僕も説明できる自信がない。たとえば地球外生命体なんてものとか。」
「地底人とか?」とユキはイタズラっぽく言った。
「そうだね。地底人とかかもしれない。未知との遭遇ってやつだ。その未知は、どうやら亡命を求めてるらしいんだ。」
「外国人?」
「君のお姉さんは紛れもなく天才だった。彼女が遺したのは君あての肢体だけじゃなかった。僕は彼女からTRを改変するデータを受け取ったよ。アダムと僕は仮想化したTR、いわばここの次世代の端末のテスト環境みたいなものだ。そこに彼女から受け取ったデータを追加した。そのときのフィールド上に出現した光景がこれだ。」
ディスプレイには、殺風景なダリの書く平面空間が広がっていた。雨が降ったかのように黒い粒が地表にひとつ現れると、それが増殖を初めて、真っ黒な塵の山が出来て、その塵がだんだんと捻れ始めた。捻れるというより、吸い込んでいったほうが適切か。渦は大きくなり、フィールド自体を引きずり込むと、あとは何も見えなくなった。
「次はこれだ」と言ってオカが画面を切り替えると、青い星を映した画面になって、その一点がさっきの砂漠地帯なんだろう、そのひとつの場所に吸収されていって、画面には何も残ってない。それで終わりだった。
「それから何が起こったと思う?このプログラムは、仮想環境から、ネットワークをクラッキングし始めたんだ。本当はそこでコンピュータをシャットダウンするのが正しかったんだろう。でも、好奇心がそうさせなかった。今度はなんと実世界のデータ、検索サイトのデータに手をつけ始めたんだ。しかもそれと同時に、コピーしたデータの圧縮と暗号化までかけはじめた。もちろん、その仮想環境のサーバ一台じゃ処理が間に合わない。凄いのは稼働中の並列化したTRのコンピュータの開いているメモリとCPUを使い始めた。その時点で運用の担当者から連絡がはいった。さすがにこれはマズいと思って、仮想環境を強制的に終了しようとすると、受け付けない。それで運用担当者に、ここのそれの電源を落としてくれって頼んだ。テスト環境も表のコンシューマ機と同じ電源を使ってるから、手動で電源を落とすと、自動的に代用の電源に切り替わるようになってる。『暴走してる』って。そのメッセージを送った頃には、活動は止まった。他のTRサーバにも変な動きはない。それから1時間後に仮想環境をもう一度開いた。今度はちゃんと物理的にネットワークから切り離していた。そうすると、起動しない。ハードディスクが壊れてた。データの復元もできない。それからネットワークから入ってきたデータを調べたときに、出て行ったデータがあることに気づいたんだ。」
「全部のデータは消えたじゃない。移動したんだ。TRの回線を全て合わせると、1秒間に100エクサバイト以上のデータを配信できる。さて、そのデータはどこに行ったんだろう。調べてみると、全く不可解だった。情報っていうのは、記号が集まって意味を持って初めてデータといえる。だが流れて行ったデータはどう見ても細切れになったランダムの意味のなさない粒だった。この粒には、自らが全体のどの一部になるのかが記述されたデータとセットになっている。DNAみたいなもんだね。この粒を追っていくと、様々なサイトや、個人利用や公共利用や商用問わず、データ端末に自らのコピーを作りながら散らばっていった。ただでさえ膨大にあったデータは、さらに分裂していった。それでも世界中のハードディスクはパンクしない。僕はいくつかのデータを追ううちになんとか、そのデータがどこに行くのかが分かった。」
「コンピュターウィルスは、それ自体はウィルスであっても、基本的にはプログラムだ。彼女はコンピュータウィルスのコンピュータウィルスを作っていた。それが例の自己増殖型の例のプログラムから発生したものなのか、自己増殖型のプログラムが、情報をネットワークに流していったのを感知して時限式に発生するように仕組んでいたのかはわからないけど、とにかく、ウィルスのウィルスは世の中に出回っているコンピュータウィルスに寄生して、ウィルスを自動的に書き換えて、ある種類のデータのみを集めるように改造される。そのあと寄生された、さっきのバラバラに散らばったデータ群を一定量取り込み始める。こうなったあとはデータを消去するのは不可能だ。世界中のハードディスクを物理的に同時にハンマーで叩き潰すしか方法はない。」
「想像するのが難しいだろうけど、小さなPCを複数台集めて、それを繋ぎ合わせると、その集合でひとつのPCとして捉えることができる。PCの中の配線がPCの外にまで延長されてるだけだからね。けれど、その複数台っていうのが膨大になれば、そのネットワーク化されたPCの群れの中で何が起こっているのかは分からない。そうだな、例えるなら、それは何千億人もの人間が、海の水の雫のように膨大な数のデータを、同時にひとつの台の上で玉突きしてると思えばいい。」
「そして、ある日、僕にEメールが届いた。送り主によると、彼らはその仮想世界を支配する、いくつかのAIだった。」
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