---------------------------"ユキ"のブログ。4。---------------------------
 貴族階級に属する男たちは、ヴェネツィア共和国の市民の娘ならば、ムラーノのガラス工であろうと国営造船所の職工の娘であろうと、誰とでも結婚することができた。貴族の血は、父方のそれだけが問題にされたからである。正式の結婚から生まれた男子であれば、その母が平民の出であろうと、二十歳に達すれば、刑事問題でも起こさないかぎり、自動的に共和国国会の議席を持てる、つまり、ヴェネツィアの貴族になることができた。元首の中にも、平民の娘と結婚した人は何人もいる。
 貴族出の娘も、貴族とだけ結婚するよう決められていたわけではない。だが、実際問題として、女が自分よりも下の階級に嫁ぐことはむずかしい。そのために一層、結婚への門は狭くなるのであった。
 文化が爛熟した十五、六世紀を境にして、結婚できた女たちの生活が華やかさを増すのに正比例して、尼僧院内の醜聞も増大したようである。それに、世は、法王まで子をもうけ、これらの法王や枢機卿たちの甥や姪が、ローマで華麗な生活を楽しんでいた時代でもある。だが、一五五一年に明るみに出た事実は、厳格なキリスト教信者とは決して言えなかった多くのヴェネツィア人をも、唖然とさせたスキャンダルであった。

 ジュデッカの島にいくつもある尼僧院の一つは、四百人の尼僧をかかえ、とくに上流階級の娘たちの入る尼僧院として有名で、それゆえに豊かでもあった。その尼僧院に、いつ頃からか、一人の司祭が毎日のように出入りするようになる。尼僧たちの懺悔を聴くための司祭であった。尼たちの懺悔を聴く役は、男の司祭でなければならないということになっていたので、尼僧院に男の僧が出入りしても、その役目を持つ司祭であれば、誰からも咎め立てはされない。尼僧院内の醜聞を嫌ったヴェネツィア政府は、若くて美男の司祭はその役につけないと法で決めたほど眼を光らせていたが、ジュデッカの尼僧院に通いはじめた司祭は、若くもなく美男でもなかったので、風紀係の委員会も注意を払わなかったのである。

 少しずつ、司祭は、懺悔をしにくる尼たちの心と肉体を乱すのに成功していった。はじめの数人が思いのままになれば、女だけの集団ではあとは簡単だ。女たちは、先を争うように、自分のほうから身を投げだすものである。こうして、聖なる処女であるべき尼僧たちは、尼僧院長もふくめて、男の思うままに動くただの女になってしまった。

 尼たちは、それまでは時間つぶしでしかなかったレース編みや刺繍を、喜んでするようになる。それらを売った金で買い求めた品で、食卓をより豪華にととのえれば、男が満足するからであった。高価なキプロス産の葡萄酒が毎夕の食卓に供され、きじの肉やかきやえびのも、惜し気もなく皿にのった。
 尼たちは、司祭に奴隷のようにつくした。いや、奴隷ならば命ぜられたことだけをやるだけだが、先を争って奉仕にはげむのだから奴隷以下である。一人の尼が裸になれと言われれば、その尼は誇らし気に自ら僧衣をはぎ取り、それを見ていた他の尼たちまでが、命ぜられもしないのに次々と裸体になった。そのまま踊れと言われれば、誰もが酔ったように踊りだす。中には抵抗する尼もいたが、司祭は、その尼を裸にして縛りつけ、苦行に用いる荒なわの鞭で打ちすえた。

 しばらくして、この尼僧院には、司祭一人でなく、数人の男たちも出入りするようになった。司祭が手引きした男たちであった。尼僧院の内部の狂乱は、ますますひどくなる。妊娠した尼がいれば、司祭の指導で堕胎がほどこされ、死児は、僧院の庭の奥に埋められた。この状態に耐えられなくなった何人かの尼たちは、僧院を抜け出し、親元に逃げ帰った。だが、その中の誰一人、訴え出た者はいなかった。また、尼たちは、外部の者に対しては、実に慎重に振るまっていたらしい。しばしば尼僧院を訪問する尼たちの近親者も、尼僧院の異常に気づいた者はいなかった。こうして、実に十九年間もの長い間、尼たちの愉しみは続けられたのである。 

 どのようにしてそれが警察の気づくところとなったのかは、裁判記録でもはっきりしない。密告を受けた警察が、調査にのりだしてわかったのか、または、出入りしていた男たちの誰か一人の口から、秘密がもれたのかもしれない。いずれにしても、明るみに出た内情は、政府が緊急閣議を招集するほどショッキングなものであった。
 ただちに司祭は逮捕され、尼僧院長も何人かの年長の尼たちも牢獄に連行され、厳重な取り調べが行われた。そして、裁判の結果、司祭には、絞首刑の後さらに火あぶりに処す刑が決まった。聖マルコ小広場の二本の間で処刑された司祭は、最後まで、尼僧院長の無実を叫んで死ぬ。しかし、名門の家の出であった尼僧院長は、その後の生涯を、牢の中で過ごさねばならなかった。尼たちはヴェネツィアから離され、本土のあちこちの尼僧院に、一人ずつ分れて送りこまれて一生を終る。以後、ヴェネツィア警察の監視の眼が、一段と厳しくなったのも当然であった。しかし、尼僧院内の醜聞は、ずっと控え目になったにしても、根絶されたわけではなかったのである。

(『海の都の物語』)



それは、ひどく不気味な光景だった。
アメリカという国は、ベトナムの泥沼を這いずり回って暮らす数十万の我々全員よりも、月面にいるたった二人の男のことのほうをずっと心配していたのだ。
得体の知れない感情がこみ上げてきた。

(ベトナム前線の米兵の手記)
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