文学の文章を眺めていて思った。

文学を書けない。

自分が書く物語のなかで孤独がどうとかそういう表現はしない。寂しくなったら恋人を作ろうとするような登場人物が出てくる話は文学にならない。

では、文学では。

文学(もしくは文学的なもの、文学のようなもの、そういう沢山のもの)のなかで、人は悲観に暮れる。問題を明確にしない。欲求を言葉に換えない。孤独だ、と書かれる。文学ではそれが不快かどうか、嫌かどうかは考えない。もしくはそれを文学的に表現する。なんか文学っぽい感じにする。人生は虚無だ、とか、そんな感じで。そういうセリフのあとに、どれだけ人生が虚無かっていうのを表現するための文章が並ぶ。最愛の妻が死んだとか、飼い犬が死んだとか、冷蔵庫に入れてたケーキが腐ってたとか、そういう文章が並ぶ。絶望。

茶化してるわけじゃない。それはそれでけっこうかっこいいと思う。ある種の文章の97%はファッションと同じように雰囲気がそれを左右する。

けれど、僕が書く登場人物は虚無とは言わない。孤独、絶望。言わない。たぶんそういう語彙を作者から与えてもらえなかったんだろう。代わりに、恋人がほしい、と言う。可愛い恋人が欲しい。これは文学ではない。たぶん、いや、間違いなく。

登場人物は「虚無」を不快と感じる。友人に相談する。問題点を洗いあげる。解決策を考える。そして実行する。これはたぶん、いや、間違いなく文学的にはならないだろう。

現実認識か選択か結論か、という世界では文学を息をすることができない。

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