物語の定型句の話ではない。
さっき新宿のドンキホーテ(すげー名前だし、『老人と海』っていうヘルスがあってもいいんじゃないかと思う)でヤンキーみたいなのと水商売みたいなのと吊り下がってるバイブやその他もろもろをかき分けて、充電器を見つけて買おうとして列に並んでたら、正月早々、日本で買い物しまくってる中国人の一団(男女のカップル3組)が前に並んでて、そのうちの一組が連れてた4歳くらいの女の子に蹴られた。
最初、足が子どもとぶつかったなって思って、目があったら、もう一度蹴った。その最中、チャイナの母親も父親も娘の明らかな反社会性に気づいてなくて、俺はそのチャイナのファッキンガールにガンつけたら、さらにもう一度蹴られた。公然の場所で小さな女の子に思い切り脛を蹴られる経験は自分にはあまり無くて、痛みというよりどちらかというと侮辱されたような気持ちになった。いや、わからない、もしかしたら中国では新年(not旧正月)に知らないひとの足を思い切り蹴れば健康に育つっていう風習があるのかもしれないし、その女の子の育っている場所は見ず知らずの人間が半径1メートルを割った距離に近づいたら護身のために全力でローキックをしろっていう過酷な環境なのかもしれん。なんせ中国、知らない轢かれた子どもを助けると罪になるからといって街行く人々は彼女を見過ごし、何台ものクルマに何度も轢かれた死にかけの女の子を助けたのが浮浪者の女というネオ末法社会だから、そういうことも冗談抜きでありえるのかもしれない。
それで、俺は、叱りたいとか非常識だとかそういうのとは全く違う全然別の名づけようのない、少なくとも日本語にはない語彙の感情を感じた。中国語ではそういうときの感情にうってつけの言葉があったのかもしれない。トータル4回蹴られたけど、両親は気づかなかった。いや、もしかしたら気付いていたかもしれない。
レジで会計を済ませたあと、ドンキホーテの滅茶苦茶な店内やそこに来る客の雑多さに少し混乱させられたあと、ここ(どこであっても)だって十分おかしいじゃないかと考えて、それから釈然としない気持ちのまま俺は家に帰った。
さっき新宿のドンキホーテ(すげー名前だし、『老人と海』っていうヘルスがあってもいいんじゃないかと思う)でヤンキーみたいなのと水商売みたいなのと吊り下がってるバイブやその他もろもろをかき分けて、充電器を見つけて買おうとして列に並んでたら、正月早々、日本で買い物しまくってる中国人の一団(男女のカップル3組)が前に並んでて、そのうちの一組が連れてた4歳くらいの女の子に蹴られた。
最初、足が子どもとぶつかったなって思って、目があったら、もう一度蹴った。その最中、チャイナの母親も父親も娘の明らかな反社会性に気づいてなくて、俺はそのチャイナのファッキンガールにガンつけたら、さらにもう一度蹴られた。公然の場所で小さな女の子に思い切り脛を蹴られる経験は自分にはあまり無くて、痛みというよりどちらかというと侮辱されたような気持ちになった。いや、わからない、もしかしたら中国では新年(not旧正月)に知らないひとの足を思い切り蹴れば健康に育つっていう風習があるのかもしれないし、その女の子の育っている場所は見ず知らずの人間が半径1メートルを割った距離に近づいたら護身のために全力でローキックをしろっていう過酷な環境なのかもしれん。なんせ中国、知らない轢かれた子どもを助けると罪になるからといって街行く人々は彼女を見過ごし、何台ものクルマに何度も轢かれた死にかけの女の子を助けたのが浮浪者の女というネオ末法社会だから、そういうことも冗談抜きでありえるのかもしれない。
それで、俺は、叱りたいとか非常識だとかそういうのとは全く違う全然別の名づけようのない、少なくとも日本語にはない語彙の感情を感じた。中国語ではそういうときの感情にうってつけの言葉があったのかもしれない。トータル4回蹴られたけど、両親は気づかなかった。いや、もしかしたら気付いていたかもしれない。
レジで会計を済ませたあと、ドンキホーテの滅茶苦茶な店内やそこに来る客の雑多さに少し混乱させられたあと、ここ(どこであっても)だって十分おかしいじゃないかと考えて、それから釈然としない気持ちのまま俺は家に帰った。
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